夕闇が部屋を閉じこんだ寝台で、身じろぎもしない影に黒騎士は膝をついたまま静かに呼んだ。
「妃殿下」
「……どうして」
寝台で乱れた身体をシーツでくるんだ皇帝妃が顔を伏せて反応する。
シーツから漏れでた長い銀の髪がわずかに動く。
「どうして、抱いてしまわなかったの?」
「………」
「わたしは「抱いてもいい」と言ったはずよ、ラウィード」
頭を垂れたまま、口を開かない黒騎士にルーヴェは「ふん」と鼻を鳴らした。
「まあ、いいわ。――もう、出て行って」
「妃殿下、私は……」
生真面目な黒騎士が言葉にしようとして、躊躇〔ためら〕う。
「私は、貴女〔あなた〕のためなら何でもします。が、このままでは貴女自身が壊れてしまう――だから」
「だから、抱かなかったって言うの?」
寝台の白い枕に顔を押し当てて、くぐもった声を上げる。
くすくすと笑って、ルーヴェはシーツの中でお腹をさすった。
「殿下、私は――」
背中に真摯な声を聞いて、首を振る。
――直感。
「ラウィード、聞いて。できたかもしれないわ」
起き上がったルーヴェは高慢に笑みを浮かべると、言葉を失った黒騎士にあられもない姿をさらす。
「レイドイーグ皇帝の、皇子よ。分かる?」
と、白い肌の豊満な美姫は美しいシルエットを夕闇に映し出して、本当の涙を微笑の下に隠した。
逃げられない檻へと自らを閉じこめるように、闇が二人を隔てた。
ガリアゲイドは、嘆息した。
「まこと、傷の絶えない御方だ。あなたは」
「 すみません 」
恐縮して小さく頭を下げる第二皇帝妃に苦笑して、手首と手足に処置をほどこしながら「変わりませんね」と妙なことに感心する。
「しかし、傷は絶えないがあなたには運が味方しているとみえる」
一番危なかったのは六年前の転落事故。
流産を危ぶまれた状況にもかかわらず、ツゥエミールは子どもを諦めることをしなかった。
その分、自らの身体に負担をかけると分かっていても……気丈に殉じた。
おかしそうに笑ったガリアゲイドに、ツゥエミールが首を傾げる。
「あ、あの。どうかされました?」
「いえ。あの時のことを思い出すと、いつもこうなんです」
「あの時?」
「ええ、六年前の――ああ、ホラ。やってきた」
「ははうえさまーっ」
だーっと駆け寄ってきたのは、左腕に包帯を巻いた幼い少年だった。
金の髪に澄んだ青の瞳の可愛い皇子。
「イグダリオ、大丈夫だったの?」
ツゥエミールは息子のケガに眉をひそめて、抱きとめる。
連れ去られそうになった母を助けようと、必死に暴漢に立ち向かった時に出来た、勲章だ。
「それは、こっちの台詞だと思うがな」
イグダリオの後ろに控えたレイドイーグが、苦々しげに呟くと、息子もコクコクと頷いた。
「ぼく、しんぱいしたんだよ」
ぎゅーっと抱きついて顔を上げる。
「ははうえさまが、ごぶじでなによりです」
にこり、と笑う少年皇子にツゥエミールは胸が熱くなる。
「うん。ありがとう」
顔を上げるとレイドイーグが顔をしかめて、「こいつ、邪魔」と一言悪態をついた。
「ホラ、妃殿下。六年前の皇帝陛下が出産後、なんて仰られたか覚えてらっしゃいますか?」
笑いを無理に閉じこめた、ガリアゲイドが言う。
『二度と、子どもは生むな』
それはそれはひどい顔で、生ませるようなことをした張本人が言ったものだから、聞いたガリアゲイドは思わず噴きだしてしまった――という曰く付きの場面。
以後、本当に生ませるつもりがないのか、できる兆しはなかったり――。
「 ツェム 」
あの時と同じように疲労をにじませた、澄んだ青の眼差し。
「おまえは、……あんまり無理をするな、俺の心臓に悪い」
どちらかというと地味な灰色に近いツゥエミールの銀髪を引き寄せて、呟く。
まだ少し、事後のしこりがあると言えばあるのだが……こんな皇帝〔かれ〕を見ると、何も言えなくなる。
「そんなこと、――レイドに言われるのは心外です」
許してしまう自分を彼に知られたくなかったので、ぷい、と気のないフリをして答えた。
「そうか?」
「そうです!」
「そうか。……では、自粛する」
「そ、はっ?」
彼らしくない、あまりに素直な反応だったのでツゥエミールは思わず向き直ってしまった。
くすり、と笑った皇帝は彼女のいつもと変わらぬ反応に思わず爆笑しそうになって、耐えている。
呆気にとられたままのツゥエミールに、くすくすと笑いながらも伝える。
「だから。今回のことは許してよ、ツェム」
鮮やかすぎる彼の笑顔に、頭がクラクラする。
「 好きなんだから 」
と、仲直りのキス。
(ずるい。こんなの……卑怯です――)
少し顔を傾けあいながら、ツゥエミールはいつの間にか瞼を閉じて、それを受け止めた。
*** ***
まるで魔法のような言葉、眼差し。
けっしてもらえないと思っていた大切な人の 特別な 場所を当然のようにくれる。
大好きなあなたといられること。
それだけで、心〔わたし〕は強くなる。
灰色に近い銀色の髪にキスされて、くすんだ青い目をまっすぐに「好きだ」と言ってくれる。
ただ、その仕草だけで。
あの異教徒の男のように、救われた。
「わたし」という存在を、はじめて認めてくれたのが あなた だったから――。
だから。
もう、本当に怖いものなんて……何もない。
fin.
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