男が泣いている……と気づいて、ツゥエミールは怯えながらも「恐怖」はなかった。
身体がふるえるのは、そんな彼の気持ちがよく分かるからだ。
彼の暗い目を見た瞬間から、「寂しい、寂しい」と泣く声が鏡に映る自分のもののように響いた。共鳴、と呼べば一番近いのかもしれない。
「大、丈夫よ? 皇帝〔かれ〕はあなたを救ってくれるわ」
「………」
ツゥエミールは声をふるわせながら、しかし確かな信念をもって男に言った。
まだ、直視するのは身体が竦んでしまって無理だったが……何とか目だけを男に向ける。
迷うような影の眼差しに、ツゥエミールはレイドイーグの冷たく熱い目を思い出して力を得る。
「しんじて。イフリアの皇帝はあなたが思うよりも、ずっと……大きい人よ」
男は怯えるツゥエミールの縮こまった身体に近づいて、顎を持ち上げた。
傷を直視させると、恐ろしい目で凄んでみせた。
疑う目と怯える瞳。
その二つは相反するように揺れながら、何故か互いの心を溶かしだして晒〔さら〕していく。
遠くて、一番近しい者――。
そんな気がした。
「 シンジル オソロシイ コト ヲ イウ 」
長い時間だったのか、それとも一瞬の出来事だったのか。
男は立ち上がると、わざと乱暴に吐き捨てた。
*** ***
イフリア帝国の首都、ベリスには幾本もの地下水道が走っている。
交渉の場に選ばれたのは、そんな地下水道の一本だった。使い古され忘れ去られた細い水道と、首都の中心を流れる大きく太い水道の合流点。
三本の道が交差して、主水道側に皇帝・レイドイーグ。
旧水道側に、人質を伴った犯人が顔を黒い布で隠して現れた。
主水道側は等間隔に点された炎によって煌々と明るかったが、旧水道側は点される明かりもなく闇に閉ざされている。
ツゥエミールの姿を確認して、レイドイーグは犯人を見据えた。
「要求を聞こう」
黒い衣服に身を包んだ相手は、流れる水の音に掻き消えそうなしわがれた声で説いた。
「 カミ ハ ヒトリデハ ナイ 」
顔を覆っていた布をスルスルと解くと、醜くただれた肌が暗闇の中に浮かんだ。
「 ミヨ。 ワガ カミノワザヲ。 ワガ ココロ ノ ウチニ カミ ハ イルノダ 」
「 用意 」
キリッ、とレイドイーグの背後で、弓を引く音が響いた。
指揮をしたのは、白騎士精鋭の帥〔そつ〕。
レイドイーグが忌々しげに舌を打つ。
「何の真似だ? ジャスター」
「貴方様にお聞かせするには、あの者の言葉あまりにも低俗にございます。皇帝陛下」
白い甲冑の品のいい騎士は、唇を微笑にかたどったまま告げた。
「姫神子様も、これを聞けばさぞ嘆かれることでしょう」
「姉上が? 冗談だろ」
唇だけで悪態をつき、レイドイーグは命じる。
「弓を解け、馬鹿者ども」
しかし、皇帝の命で従うのは黒騎士の精鋭のみ。
自嘲的に思って、白騎士精鋭の帥に向き直る。
「弓を解かせろ、まだ人質がいる」
「それに値する者とは思えませんが?」
平然と答えると、彼は手を挙げて弓を促した。
「 あれは私の妻だ。 価値 はある 」
澄んだ青の瞳が、冷ややかに殺気を帯びた。
「聞こえなかったか? 私の妻だ。弓を解け、と言っている」
「……遺憾ながら、もう手遅れです。皇帝陛下――あの罪深き者を見過ごすことは白騎士〔我ら〕にはできません」
躊躇〔ためら〕いもなく、帥は手をふり下ろして命じた。
「 射て! 」
白い弓矢の雨の中、ツゥエミールが男をかばって前に出る。
レイドイーグが目を疑った時、彼女の唇が静かに動いた。
『この人を、助けてあげて――』と懇願する。
「馬鹿な」
忌々しく睨んで、レイドイーグは躊躇うことなく地下水道へと身を投げた。
地下水道を流れる水の大きな音が、沈黙する闇を包んでいた。
「 ツゥエミール…… 」
抱きしめた温かな身体を、レイドイーグは呼んだ。
濡れそぼった金の髪から、水が滴〔したた〕る。
ため息と共に、はるかに澄んだ青の瞳を歪ませる。
「私を殺す気か? おまえは」
「……彼を――」
「ああ、あれはもう、助からんが?」
容赦のない言葉に、ツゥエミールがふるえた。
レイドイーグはその様子をうかがって、やれやれと息をつく。
「そこまで執着されると、妬けてしまうな。ツゥエミール?」
「 え? 」
ふるえたまま、無防備に顔を上げた彼女に触れるだけのキスをする。
潤んだ目を見開いたツゥエミールに微笑んで、レイドイーグは彼女から離れた。
「容態は?」
白い矢の集中砲火を浴びた男を囲んでいた黒騎士たちが立ち、首をふる。
焼きただれた顔は蒼白で、空ろな眼差しが視界を彷徨〔さまよ〕わせていた。
「 コウテイ ヨ。 ……イル ノカ? 」
レイドイーグは立ったまま、その死に逝く男を眺めた。
澄んだ青の瞳を細めて、答える。
「ああ、ここに」
「 キ、イテクレ。 ワレ…… ノ ナカニ カミ、 ハ イル。 ホン、 トウ ダ 」
「……認めよう。
おまえは、彼女を助けてくれた――礼を言う」
「 ……アリ、 ガトウ 」
暗い目からうっすらと涙が浮かんで、開目したまま男は息絶える。
彼には、名前さえも墓標すらも与えられない。
目を伏せて、レイドイーグは黙祷した。
to be...
しなやかに強く。1-5 に続く
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