「ティナ?」 反応を待つ相手の瞳は、前の日と変わらぬ温度のない青灰色。 記憶を喪失〔なく〕した少女の、一時凌〔しの〕ぎの名前は「ティナ」。 「気に入らないのなら、他のを考えるが……」 その彼の鉄仮面を見ていた少女は、ふるふると首をふった。 「嬉しい」 ふわり、と笑う。 「そうか……」 深い漆黒の長い髪で隠された顔を、わずかに微笑ませるとデルハナースは、背を向けた。 「あ! あのっ」 ティナは、部屋から出ようとする主に、慌てて声をかける。 若い男主はふり返ると、無言で後を促〔うなが〕した。 「すいません、ご面倒ばかりをお掛けしていて……あの、外に出たらダメですか?」 「………」 デルハナースは不思議そうに彼女を見た。 どうして、彼女がそのようなことを訊くのか分からないというふうに。 「外に出た方が、思い出せるんじゃないか――って。そんな気がするんです」 「私に了解を得なくてもいい」 抑揚のない声で、彼は言った。 「幸い、君の怪我は軽傷だし。好きにすればいいさ」 冷たいとも思える態度だった。 けれど、なぜかティナにはその突き放した言葉がとても甘美に響いた。 ずーっと、欲しくて……欲しくて貰えなかった高級菓子を口にふくんで広がっていく甘さ。 ぽかん、としたティナにデルハナースは何も言わず静かに出ていった。
「………」 心が満たされていく。 そう、ティナは感じていた。 (どうしてだろう、こんなにも心が解き放たれるのは……あの夢とは正反対に) ぞくり、と寒気が走り、身体を丸めた。 今朝見た夢の甘美な感覚を思いだし、身体の四肢という四肢、長い目の覚めるような金髪の先から足の指……手の指先まで抗〔あらが〕う。 忘れたい。 (何を?) 自分は切望していた……たぶん、忘れることを。 けれど、記憶は自分を見放さずに捕えようとして迫ってくる。 ――イヤだ! 来ないで! わたしは忘れたい……。 ティナの頬には涙が幾筋も流れていた。頬を拭〔ぬぐ〕って、潤んだ瞳でその濡れた手の甲を見る。 (分からない……分からないのに! どうしてわたしは泣いているの?) 怖くなって、ティナは寝台を下りた。 身仕度を整えると、逃げるように部屋から飛び出した。 *** ***
少女が怯えたようにダイニングに駆け込んで来た時、ちょうどデルハナースは朝の紅茶を用意しているところだった。 このあたりが、普通の貴族っぽくないところである。 ちなみに、アルテア家に使用人は必要最低限にしか存在しない。 しかも、普通に要求されうるハズのこのような朝の準備やらもあまり必要とされないため、住み込みは先代からの付き合いである老執事だけであった。 デルハナースの傍らで、食事の用意をしていた彼は年齢を感じさせないぴしりとした姿勢で微笑んだ。
「おはようございます」 その老紳士の穏やかな言葉に、ティナはハッと頬をそめてドレスを持ち上げ頭を下げる。 「おはようございます。あの、お世話になります」 「いえいえ、お世話はほとんど旦那様にお任せしていますので、私はその補佐をさせていただくだけでございます」 さ、どうぞと彼は椅子を引いた。 おずおずとティナはダイニングへと入ってみる。 不思議な感じだった。 広いのに、人が近い……こんなのは、慣れていなかった。
4.司法院〔ケルビム〕と朝の街 に続く |