さき花 〜6, する人〜


〜帝国恋愛秘話〜
 7, 白い檻 に続く



 パシャパシャとダフネリアが駆けると、足に跳ねた泥水がかかった。
 激しくはないが、とめどなく降り落ちる空からの恵みは、ダフネリアの長い黒髪をしっとりと濡らして重く、冷たいものにしていく。体の熱も奪われ、イフリア首都ベリスの歓楽街に入る頃には捨てられたノラ猫のようになっていた。
 吐く息だけが、熱い。
「アルザス兄さま……」
 必死に歩き回るダフネリアを誘う男は多かったが、強く付きまとう者はいなかった。おそらくは、少し頭のおかしい女なのだろうと敬遠されていたに違いない。
 彼らとて、変に騒がれては迷惑なのだ。
 はた、とダフネリアは細い路地から出てきた兄を見つけて、駆け寄った。
「デルハナース兄さま!」
「ダフネリア」
 デルハナースは濡れそぼった妹の姿にわずかに目を瞠って、抱きしめる。
「どうして、こんな……風邪をひく……」
 そう呟いて、自分の上着を妹にかけた。
 持っていたハンカチで頬やら髪やらを拭ったが……当然、間に合わない。
「早く、家に戻ろう」
「いや!」
 激しくかぶりを振って、ダフネリアは拒絶した。
「家には戻らない。戻れない! 兄さま! アルザス兄さまは、どこ?」
 常にない必死の妹に、デルハナースは困惑した。
「アルザス? もう夜だ……明日の方が……」
「ダメ、ダメなの……今じゃないと。兄さま、お願い」
 ふるえる体で訴えるダフネリアに、デルハナースは根負けした。もともと、兄よりもこの妹の方が頑固だ。
 それに、アルザスの素行は隠しておくよりは知っておいた方がいいだろう。
「おまえの目も覚めるかもしれないしな」
 と、デルハナースは半ば本気でそれを願った。


「アルザス兄さま!」
 呼ばれて、アルザスはふり返った。
 そこにある顔に「ダフネリア」と呟いて、その少女がまっしぐらに自分に抱きついてくるのを受け止める。
 アルザスの傍らにいた、どう見ても友人ではない女性……つい先ほどまで遊びの愛を語らっていた相手など、彼女には見えていないようだった。
 それとも、知っていたのか。
「抱いて」
 と、雨に濡れた少女はらしからぬ言葉を紡いだ。
「なんだって?」
「お願い、兄さま……今すぐ、ダフネリアを抱いてください」
 雨の冷たさにふるえる唇は、意外にもはっきりと口にする。
 青い瞳は揺れることなく、アルザスの姿を映した。
「わたしを好きでなくてもいいから……」
「怒るよ、ダフネリア」
 低く、アルザスは不快感をあらわにした。女性との お楽しみ を邪魔されたせいもあるが、なによりダフネリアの態度が気に入らない。
「怒ってもいいから。痛くしてもいい、傷つけてもいいから……」
 今すぐ女にして、とキュッとアルザスにすがりついた。
 流石に、アルザスも彼女の性急さに気づいた。
「何があったんだい?」
「兄さまのそばにいられなくなる……わたし……」
 青い目にたまった涙が、雨のしずくと一緒に頬を流れた。

 ぐい、と彼女の肩を誰かの腕が掴んで、アルザスから引き離そうと乱暴な力をくわえた。

「いやっ!」
「ダフネリア様、お諦めください……貴女は」
 それは、白い甲冑と白いマントの国教会お抱えの白騎士だった。司法の癒しを司るアルテア家にとっても犬猿の間柄だが、勿論司法の裁きを司るトラドゥーラ家にとっても良好な相手ではない。
「なんで、国教会がダフネリアを?」
 相手がトラドゥーラ家の放蕩息子だと知っている白騎士は言葉を交わすのも嫌うかのように、視線を外した。
「ダフネリア様は国教会の姫神子として選ばれたのです。トラドゥーラ家〔血の色濃き血脈〕の貴方が触れていい方ではない」
「ちがう!」
 ダフネリアは叫んだ。
「兄さま、助けて……」
 涙を流すダフネリアが嘆願した。
 アルザスはその頬を拭って、さらに引き離そうとした白騎士に一瞥をくべる。
「野暮だね、神に仕えているとコレだから――何もどうこうするつもりはないよ。どうせ、君は下っ端だろう? 見張ってるだけでいい」
 白騎士は心外そうに顔を引きつらせたが、的を射ていたのか反論はしなかった。
 事実、ダフネリアの処女が穢されないかぎりは見張っておくだけでよかった。

「兄さま……」
 ほろほろと泣き続けるダフネリアに、アルザスは呆れた。
「泣かないで」
 ダフネリアは頭を上げて、アルザスを見る。
「笑っておいで」
 こつり、と額があたって濡れた髪が触れ合った。
 この瞬間がずっと、続けばいい――とダフネリアは願った。
 瞼を閉じて、一生懸命笑おうと努力する。
「笑っていたら……アルザス兄さまが助けに来てくれる?」
「そうだな。笑っていたら、ね……」
 濡れた唇をかするように触れて、チュッと吸った。
「その時は、アルザス兄さまがわたしを女にしてくださる?」
「………」
 沈黙した彼に、ダフネリアはゆっくりと開いた目をふたたび静かに閉じて彼の唇と舌を受け入れた。

「 愛しています、アルザスさま 」

 大司教が正式な教皇からの書状をもって、ダフネリアを迎えに来た時彼女はしっかりと歩いて彼らに従い、最後の挨拶になるだろうアルザスとの面会に笑って告げた。
「待っています、ずっと」
「ああ」
 黒く長い髪と青い瞳の、よく知る少女を乗せた国教会の白い馬車が走り出すと、あっという間に視界から見えなくなった。



 その場限りの約束に、「愛している」とは答えることができなかった。
 実際、そんなふうに彼女のことを考えたことはない――彼女は、妹みたいな 存在 だった。

 この瞬間〔とき〕まで。

 急激に襲う、喪失感。
「ダフネリア」
 と、呟いてアルザスは彼女が消えたその道を長い間、眺めていた。


 7, 白い檻 に続く

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