イフリアの首都ベリス、そのどこにでもある路地裏でフッと彼は紫煙を吐いた。
ガラがいいとはお世辞にも言えない場所だけに、その場に馴染んだ立ち姿は士官学校の制服を着ていても周囲に潜むゴロツキと性質はよく似ている。
白い制服が汚れるのも構わずに、薄汚れた塀に背中を預けてアルザスは言った。
「 君の妹君はいったい何を考えているんだい? デル 」
「………」
そんなことを訊かれても、デルハナースは答えることができない。
実の兄とは言え、ダフネリアは思春期の少女で別個の人格なのだから――。
着崩したアルザスの制服に対して、デルハナースは几帳面なほどカッチリと制服を着こんでいる。閉塞感のあるこの路地裏という場所で、それはいささか浮いて見えた。
「この俺を好きだって? 本気かねえ」
栗色の前髪から、まるで現実味のない御伽噺でも聞かされたようにアルザスの眼差しはすがめられた。
『ソイサーマルのアルザス』として有名な彼の素行の悪さは、折り紙付きだった。
司法の「裁き」を司るトラドゥーラの家系にとって、これ以上の醜聞があるだろうか。
「……知らん。知らんが、アルザス?」
表情のない黒髪に青灰色の瞳の学友が、低い静かな声音でくすくすと笑う彼を咎めた。
「妹を――ダフネリアを傷つけるな」
「……ふん。そのつもりだよ、俺も。彼女は俺にとっても妹みたいなものだしね」
くわえていた煙草を口から離して、息をつくともわっとした煙が周囲を陽炎のように見せる。
「ならいいが。ふるならふるで構わないんだ……おまえの場合は付き合った方が傷つくだろうから」
「ひどいね」
くっくっくっ、と喉を鳴らして、言葉ほどは気分を害していない。
事実、過去の彼の女性への付き合い方は不誠実で同時に何人もの彼女を股がけしていたり、無視したり、わざと気のあるフリをして騙したりしていた。
幾度かの修羅場を見ているデルハナースからすれば、ダフネリアの相手としてアルザスはとてもじゃないがオススメできない。
「でも、俺もデルの意見に賛成だな」
ふたたび、煙草に口をつけて黙る。
先の短くなったそれに赤い炎が燻って、苦そうにアルザスは唇を歪めた。
傷つけたくないのか。
傷つきたくないのか。
この際、どうでもいいことだった。
「 アルザス兄さま! 」
ソイサーマルにある帝立で唯一の士官学校には、校舎の敷地内に学舎とは直接関係のない非常に貴重な建物も含まれる。
それは、未来の士官たる若者が優秀な士官候補生と認められた誇りであり、名誉であった。その一つである、帝国〔くに〕の古書を集めた建物『古書館』で彼女の姿を見つけたアルザスは不覚にも突っ立ったまま、彼女に笑顔で出迎えられた。
「お待ちしてましたのよ……でも、本当に来られるなんて 不良 ですのね」
くすり、と可愛く笑ってダフネリアは大きな本を二冊、机の上に置いてやってくる。
アルザスの手をとって、「驚いてくれました?」と嬉しそうに訊いた。
「ダフネリア……どうしてココに?」
明らかに不機嫌なため息も、昔からの親しい仲である彼女には少しも効力を発揮しなかった。
「ここの学者さまと、お父さまが知り合いですの。学校まで兄さまに 会い に行くのは止められてしまいましたから、ここで お手伝い することにしました」
「おまえは、止められた理由をわかってないだろう?」
はあ、と息をついてアルザスは忌々しく呟いた。
デルハナース家と近いアルテア家は、中流程度の貴族だ。結婚前の娘を、若い男の多い士官学校に近づけるなんてことを、許すワケがない。
可愛い一人娘に言いくるめられたのだろう父親……ステイン・ジン・アルテアの渋い顔を 簡単に 想像できるあたり長い付き合いも良し悪しだ。この厄介な矛先はきっと、アルザス自身に向かうのだろうことも 容易に 予想がつくじゃないか。
(まったく……)
やれやれ、と肩をすくめるアルザスに、ダフネリアは心外だと胸を張った。
「平気です」
と。全幅の信頼を彼に向ける。
「アルザス兄さまが守ってくださるのでしょう?」
「………」
彼女の無邪気すぎる眼差しは時々、純粋すぎて汚れきったアルザスには 毒 だった。
「それに。士官に志願する方々は、大抵わたしのような女には近づかない……堅すぎる女では遊ばない、とアルザス兄さまがおっしゃってましたわ」
ダフネリアの服は古書を扱うにふさわしい、少し地味なものだった。動きやすい簡素なつくりで、布もごく実用的に最小限の量で使用している。飾りは一切、なかった。
「確かに、言ったけど」
(――遊ぶのには、後腐れがない方が楽だから、とは気づいてないんだろうな)
皮肉げに、唇の端を上げる。
「それに。こんなトコロに来る士官生なんて、兄さまくらいですわ」
いつも、午後の時間はココでサボっていることを知っている口調のダフネリアに、アルザスはここの管理をしている学者が余計なことを吹き込んだのだろうと考えた。
(おしゃべりジジイめ!)
くすくすと楽しそうに笑うダフネリアに、窓から午後の太陽が射して、いつもは薄暗い書架部屋がふわりと優しく照らされた。
*** ***
彼女がいると、時間が優しく過ぎていく――。
倉庫に乱雑に仕舞われている古い文献を一冊一冊確かめて、それを指定の目録に記録し、印をつけて書架に並べて整理する。
学者から手渡された資料を見て、ダフネリアはその地道な作業を黙々とこなしていた。
アルザスがいるからと言って、手伝いを疎〔おろそ〕かにするようなタイプでないのは……勿論、よく知っている。
だからこそ、彼女がいてもここにサボりに来るのは常習化していた。
ペラペラ、と古い本のページをめくって、静かな時間を過ごす。少し前と違うのは、すぐ近くに人の気配があって、心地いい風の行き来があるということ。
それに。
時々、お茶が出た。ついでに、お菓子も。
もともと、気心の知れた相手だから……アルザスも冷たくは対処するものの、強く拒むことはできなかった。
ほのかな香りと、ふんわりと上がるあたたかな湯気。
淹れられたばかりの紅茶に口をつけて、お菓子をつまむ時間は最近では当たり前のように書架部屋〔そこ〕にあった。
「アルザス兄さまは、いつもどんなご本を読んでらっしゃるんですか?」
ダフネリアは覗きこんで、難しい顔をした。
医学書や法律書といった専門書があるかと思えば、少し娯楽的な内容の古典の文学もまじっている。
「決まってないよ、そんなの」
気のない様子で答えて、彼女の目から本を退ける。実際、選ぶ本の種類なんて節操がなくて、女の子を選ぶのと似たり寄ったりという感じだった。
「そうなんですか?」
腑に落ちないとでも言うように彼女は口にして、「美味〔おい〕しいですか?」と訊いてくる。
「不味〔まず〕くはないんじゃない?」
いつもと変わらぬつれない返事を返して、アルザスはなんだか少し居心地の悪い気分を味わった。
2, つぼみ に続く
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