その人は、わたしにとって兄のような人だった。
事実、本当の兄の友人で……家族も古くから続く近しい司法の家柄同士だったので、幼い頃からよく遊んでもらったものだった。
「こっちにおいで、ダフネリア」
柔らかい栗色の髪に亜麻の瞳の木漏れ日のような笑顔で、名前を呼ぶ。
いつからか、それは特別なものになった。
「ホラ、泣かないで。君は花だよ、可憐な花……笑っておいで。そうすれば、いつだって守ってあげるから」
(ほんとう? 本当に守ってくれる? アルザス兄さま。だったら、ずっと笑っているわ)
だから、お願い。
わたしから離れていかないで――。
*** ***
デルハナース・ジン・アルテアは帳のような長い黒髪から青灰色の目をすがめて、妹を見た。
どこか無表情で冷たい感じのする彼だが、ずっとそばにいる妹にはそれが彼の「心配そうな」表情だとすぐにわかる。
「兄さま、そんなに心配しないで。わたしは幸せよ」
と、ダフネリア・ジン・アルテアは微笑んだ。
兄のまっすぐな黒髪とは少し違う軽くクセのある黒髪と青い瞳の少女。
肌は白く、色づいた頬と鮮やかな艶のある唇がアンティークな人形を思わせた。
いつも、ダフネリアは笑っている。
と、デルハナースは思った。
幼い頃はよく泣いたり、怒ったりしたものだが……ここ数年、笑っている彼女しか見たことはない。
「ダフネリア、嫌なことは嫌と言っていいんだよ?」
真剣な兄の表情に目をパチクリと見開いて、ダフネリアは笑った。
「いやだ。兄さま……そんなことを心配していたの? コレが親同士が決めた話だから。――だから、わたしに意志がないと思ってらっしゃるのね」
「違うのか。だって、あいつは――」
ダフネリアは、黙って顔を上げ幸せそうににっこりと微笑んだ。
「 ダフネリア! 」
バタン、と事前のノックもなく扉を開け放った彼は苛立たしげに彼女の名前を呼んだ。
ここまで走ってきたのか、息は乱れ、やわらかな栗色の髪が揺れていた。
亜麻色の甘い瞳は、今は困惑を通り越して憎悪さえ浮かべて現在の自分の置かれた状況に彼女の存在を確かめる。
「親父に聞いた! 俺との婚約を了承したって。正気か?」
今日、婚約の日にはじめて知らされた事実にアルザスは最初困惑し、それをダフネリアの方は了承済みだと聞かされて驚いた。
こみ上げてくるのは、自分だけが今日は「ホームパーティ」だとさっきのさっきまで信じていたことだ。
道理で、「遊ぶ約束がある」と辞退しても父がしつこかったワケである。
「ホームパーティ」にしては、カッチリとした服装をさせる母にも不審を覚えていたが……まさか、本人の意思を無視して結納を決行するとは。
騙まし討ちじゃないか。
「冗談じゃない」
と、アルザスは立腹していた。
上衣の前を着崩して、彼女を睨む。
パタパタ、と彼女は駆け寄って、そんな彼の不穏な空気にも怯まずに抱きついた。
「アルザス兄さま!」
パッ、と花が咲くような笑顔で見上げる。
「正気の沙汰じゃない」
首を振って、アルザスは冷ややかに彼女を見下ろした。
「どうして?」
「どうして、だって?」
不思議そうなダフネリアに、口の端に不穏な笑みをのせてアルザスは繰り返した。
「親父の 作意 を感じる。おまえは感じないか? ダフネリア」
「……それが何か問題ですの?」
驚くこともなく受け入れて、ダフネリアが問い返すのでアルザスは呆れた。
「おまえには自分の意思というものがないのか? ダフネリア」
彼女の肩を突き放し、訊く。
と、ダフネリアはまっすぐに見返して言った。
「わたしはアルザス兄さまが好きです。誰かの作意があってもなくても……それだけがあれば 十分 だと思いました」
背筋をシャンと伸ばし、ぽかんと立つ彼に毅然と彼女は笑いかけた。
1, 優しい時間 に続く
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