第2ラウンド開始のゴングが高らかに鳴った夫婦の夜に、突如終止符が打たれた。
最初は、ちょっとしたぐずるような声だった。 しかし、すぐにそれは盛大な泣き声になる。 「タイヘン!」 がばり、と起き上がると、朱美は菫の腕から飛び出した。 ベッドの脇に落ちた服に適当に袖を通して、ふり返る。その……アッという間の彼女の転換の早さに、ベッドの菫は少しばかり面白くないと肩を竦〔すく〕めた。 「菫さんは、先に寝てていいからっ」 「はいはい」 分かったよ、とばかりに手を振る彼に、朱美が素早くキスを落とす。 黒い瞳が、暗い闇の中でまっすぐに見つめてくる。 「ゴメンね、これで許して」 上に菫の着ていたシャツを羽織り、下は下着だけの妻に(仕方ないけどなぁ……)と、夫は苦笑いするしかなかった。 「――行っといで、お母さん」 「うん。先、寝ててね!」 ダボダボのシャツをひらりと翻〔ひるがえ〕して、パタパタと朱美は隣の部屋に駆け込んでいく。 残された菫は、ポツリと一人ごちた。 「やっぱり、あと五年はコレ使わないとなあ……」 と。 チョコ入りの箱をカラカラと鳴らして、自嘲気味に微笑んだ。
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次の日の朝。 せわしない朝のひとときに、「あれ?」と蒼馬が首を傾げた。 「母さん」 「なぁにー?」 台所で弁当箱と格闘中の母が、大きな声で答える。
「――昨日、父さんにチョコ渡したの?」 「へっ?! な、なんで!」 びくり、と蒼馬をふり返った母は、明らかに動揺している。まるで、イタズラを見つかった子どものような反応だ。 「だって……」 じーっと見る蒼馬の目は、母のただ一点だけを見つめて動かない。 「チョコがついてるから、 首 に」 「うえっ?」 ぎょっ、となった朱美はハッとする。 カウンターから身を乗り出すと、蒼馬の向かいに座り、珈琲〔コーヒー〕を片手に静かに新聞を読む菫を睨んだ。 「菫さんの、ばかー! 夕べあんなことするから、蒼馬にバレちゃったじゃない!」 新聞から視線だけを朱美に向けて、菫はしれっと言う。 「貰ったのは本当なんだから、いいじゃないか」 「それを「 秘密 」にするからいいんじゃないいっ!」 朱美には朱美にしか分からないポリシーみたいなモノがあるらしい。「ひどいひどい」を連発する。 「朱美、手――もう、時間ないよ?」 「 ! 」 時計を仰ぎ見ると、針は8時をさそうとしていた。朱美は慌てて台所に引っ込み、弁当箱との戦いを再開する。 そんな母をくすくす、と笑って見守る父を見て、蒼馬は訊くに訊けなくなった。 (…なんで、あんなところにチョコがつくのか? 気になるんだけど――) しかし、だ。 ソレは、聞いてはいけないことのような気がして、沈黙する。 焼きたての食パンを口に入れ牛乳で流し込むと、賢明な小学三年生の長男は疑問を忘れることにした。
竜崎家のバレンタイン。5 <・・・ 6(終) ・・・> あとがき。
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