冬期休暇が明けたせいか、会沢朱美〔あいさわ あけみ〕の表情は暗かった。
向陽大学、奇術サークル「メッフェ・ブランシュ」の新年会に参加した彼女の異変は、すぐに分かるほどあからさまだった。 おなじみの飲み屋『ドロンズの洞窟』で、彼女がお手洗いに立った時、すかさず斎木亜矢〔さいき あや〕は席を立ち「彼」に近づいた。 亜矢の目下、一番の意中の相手だったりする彼は、「彼女」である朱美がいるとどこか他の女性に対して淡白になる感がある。 ワザとなのか、無意識なのかはイマイチ判別がつかないが――。 「竜崎くん」 「はい? なんでしょうか。斎木先輩」 にこり、と微笑んで彼女を仰ぐと、彼・竜崎菫〔りゅうざき すみれ〕は席を立って彼女に席をすすめた。 そして、自分は近くの壁にもたれて首を傾げる。 「大丈夫ですか? 先輩」 突っ立ったままの彼女に、訊く。 「え? ああ! ちょっと見惚れちゃったわ。ビックリさせないでよ」 「はあ? すみません」 亜矢に上目遣いで可愛く睨まれて、菫は不思議そうに笑いながらも謝罪した。 「それで、先輩。何か、用があったんじゃないですか? 僕に」 「ああ、そうそう!」 忘れそうになっていた用件に気づいて、ソファに座った亜矢は大きく手を打った。 「何かあった?!」 「え?」 色素の薄い紫がかった瞳を見開いて、菫は亜矢を見つめ返した。 「何かって言われても……何に対して答えたら?」 くすくすと苦笑する後輩は、綺麗な顔をしながらどこか男っぽい表情をする。 「デショ? 先輩」 「そ、そうよね。えーっと、会沢さんが「変」でしょう? だから」 「ああ。――朱美はいつも、「変」ですけどね。たいてい」 さもそれが「可愛い」とばかりに口にすると、少し低く唸〔うな〕った。 「僕のこと、避けてるの分かりますか?」 「やっぱり、そうなの?」 穏やかな菫がことさら静かに言うのを、亜矢は(あれ?)と思いながら眺めた。 そして、 「結構、堪〔こた〕えてるのね。竜崎くん」 「そういう先輩は、なんか喜んでませんか?」 長身の背中を壁に預けたまま、亜矢を嫌そうに見返すと菫は手にしていたグラスを傾ける。 氷が澄んだ音を鳴らした。 「そりゃあ、わたしは竜崎くん狙いですから」 「それはそれは」 まるで上手な落語を聞いたように菫は応え、亜矢に極上の微笑を浮かべて言った。 「光栄ですね」 と。 まんざらでもないように。
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「―――」 菫と亜矢が歓談しているのをお手洗いから戻った朱美は遠目に見て、クルリと背を向けた。 ( なによ ) お手洗いに続く廊下に出ると、息を吐く。 イロイロな感情がない交ぜになって胸を締めつける。 不安、焦燥、罪悪感、そして疑惑。 朱美は自分でも、自分がナーバスになっていると気づいていた。どうしてここまで不安定になるのか……その理由は分かっても、あまりにささやかすぎて深刻になる理由が分からない。
初めてのことがあったから? それとも、いきなりアアいう話になったから? 勿論、ソレも大きな要因だろうけど……でも。 一番の問題はきっと。 と、朱美は初めてソレを意識してから幾度となく繰り返してきた動作をして、「なによ」と呟いた。 泣きそうになる。 こんな気持ちは初めてだった。 「菫さんなんて――」 「僕が、なに?」 「 ! 」 背後に聞こえた聞き知った彼の声に、朱美はギョッとしてふり返る。 「菫さんん?!」 長身の彼は朱美の横の壁に片手をかけると、その澄んだ色素の薄い瞳をまっすぐに朱美へと向けてくる。 どことなく怒っているような、物静かないつもの彼からすればじつにめずらしい表情〔かお〕だった。 朱美は戸惑うと、目をそらして平静を装った。 「ど、どうしたの? あ。菫さんもお手洗いならすぐそこよ?」 びくり、と触れる彼の指先の冷たいことといったら、この時まで知らなかった。 「………」 「朱美、本気で言ってる?」 「な、なにがっ?」 菫の紫に似た色素の薄い瞳で居すくみ、朱美は怯えたように背中を壁にぶつける。 「何か僕を疑ってるんじゃないの?」 息を呑み、朱美は呆然と菫を仰いだ。 「疑ってなんか……菫さんの「女好き」なんて慣れてるから平気よ」 「ああ、そう」 瞬間、菫の瞳がスゥッと細くすがめられた。 「――そこまで 俺 を怒らせたいワケだ?」 冷たくそう瞳をそらされる。 「分かった」 「………ッぁ」 会場に戻っていく彼の背中をただ見送って、朱美はボロボロと声を押し殺して泣いていた。 これまでにこんなに泣いたことなんてない、というくらいに止めようと思っても止まらない。 ズビズビと鼻を鳴らして、咽喉〔のど〕をふるわせる。 「な、なによ……菫さんなんて、何も。何も、分かってないクセにぃー」 そう思うと、さらに泣けてくる。 「 うー…ッ 」 分かってほしい……でも、怖い。 怖くて逃げ出したら、彼は追ってこなかった――あまりに心細くて、泣き止むことができなかった。
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シーン、となったリビングのソファで柳ヶ丘小学校三年の竜崎蒼馬〔りゅうざき そうま〕はどう言えばいいか分からずに押し黙った。
(ぼくが コレ に、どう、反応しろっていうんだ??) もっともな意見だとは思うが、彼の母には通用しない。はっきり言って。 「あんなに泣いたのは、後にも先にもアレ一度きりだったのよ?」 昔を思い出して感慨深く呟くと、蒼馬の横で物静かに聞いている夫・菫に未練がましく不満をこぼす。 「菫さん、冷たいんだもん」 「ソレは、朱美が 素直 に言わないから、だろ?」 呆れたように妻を見て、しかしそれも長くは続かない。 くすくすと笑い出す。 「まあ、すぐに 素直 になるからいいけど」 と。 むぅ、と口をすぼめていた朱美がいきなり赤くなる。 「あ、れは……」 あのあとの一幕のことを、菫は言っているのだ。 そう思うと、流石に気恥ずかしい。 だって――。 「だってさ! 爆発しちゃったモノはしょうがないじゃないよっ!!」 めずらしい反応に、蒼馬が目を見開いて驚いた。 いつも喜々としてなれそめ話をする母が、この件〔くだん〕になって照れるとは。 「なに? 何かあったの? 父さん」 『菫さんのバカーーーぁぁあっ! アレがきちゃったんだってばっ! そんなの言えるワケないじゃないい』 会場に駆け込んでくると、涙でボロボロの彼女は真っ赤になって泣き叫んだ。 飲み屋のど真ん中でサークルのみんなに囃〔はや〕し立てられるわ、後日イロイロと卑猥な噂になったりもしたのだが、菫にはどうでもいいことだった。 (だって、なあ?) にこり、と優雅に息子を眺めると、至極真面目に言った。
「それは、夫婦の秘密です」
おわり。
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