その建物に入った人物は、すぐそばにあった受付へと進むと怯〔ひる〕むことなく、訊〔き〕いた。
深い紺のジャケットの下には鮮やかな朱のシャツ、そしてサングラスをかけている。
「灘亜希〔なだ あき〕が入っているのは、どこかな? 確か、ここで『苑』の仕事をしてるって聞いてるんだけど」
案内係のカウンターレディはスケジュール表をめくると、手早く把握し顔を上げた。
「お待たせいたしました。灘さまは、今「Pスタジオ」に入っております」
「P、ね。はいよ」
確認するや、横にあるエレベーターへと進む。
「あ、失礼ですが。今はちょうど撮影中で。関係者以外は立ち入り禁止となっておりますが……関係者さまですか?」
必要であれば、連絡をお取りします……と申し出る彼女に彼は、少しだけサングラスを下げて目を彼女へと向けた。
「関係者、ではないな。が、部外者でもない。ここの案内は必要ないよ、北条さん。――慣れてるからねえ?」
少しクセのあるイントネーション。
「あ!」
カウンターレディは声を上げると、立ち上がり深々と礼をする。
「比奈さま! 失礼いたしました」
くくく、とそんな彼女をからかうかのように手をヒラヒラとさせて、開いたエレベーターへと乗りこむと、「まだまだ修行が足りないなあ」と比奈東吾〔ひな とうご〕はジャケットに手を突っこんで鮮やかに微笑んだ。
*** ***
パッ、とフラッシュが焚〔た〕かれて閃光が走る。
間髪を入れないベテランの決断力を思わせる素早いそれに、カメラマンである彼女がまだ若干二十三歳だということを忘れそうになる。
仕事でもスポーツでも、リズムというのはささやかだが大切なものだった。それを効率よく刻むことで、労働時間の短縮につながるのだ。
最後の一枚を撮り終えた灘亜希は息をつくと、ファインダーから目を離してにっこりと笑った。
「お疲れさまです、竜崎さん」
『苑』の売り出している新作の春用ジャケットを羽織った彼へと、労いをかけて歩み寄る。
竜崎菫〔りゅうざき すみれ〕は色素の薄い髪をさらさらと流して、前髪の奥から魅惑的な紫がかった眼差しを覗かせた。
「出来はよさそうですか? 灘さん」
「ええ! いい絵が撮れて迷いそうよ。やっぱり被写体がいいと楽ですね」
と、頬を上気させて亜希は跳ねた。
普段は落ち着いてみえる彼女も、こと仕事の出来に関することには年相応のはしゃぎ方をするらしい。
それだけ、今回の出来に満足をしている……ということだろうが。
「それは、良かった」
微笑んだ菫は、あきらかに亜希の言葉を社交辞令と受け取ったらしい……のんびりとした口調でやわらかに言った。
「あ、本気にしてませんね。ソレ、竜崎さんの悪いクセ」
キッ、と笑う年上の彼を睨み上げて亜希は人差し指を立てた。
「絶対、モデルの方がお似合いですってば」
単刀直入に断言する彼女に、菫は苦笑した。初顔合わせをした時からの……コレは彼女の常套句。
亜希の方は、『苑』の仕事依頼があった時に菫の存在を知っていて、本来なら単発的なピンチヒッターに近い菫をメインの写真モデルにと推薦したのだ。もちろん、社運をかけて引っ張ってきた新進気鋭の若手カメラマンの意向を無下にすることもできず……押し切られた格好というべきか。
「それはちがう、いい写真が撮れるのはその人の腕がいいからだよ」
首を横に一線振って、否定した。
「強情な人ですね! 竜崎さんって」
自分のアプローチに一向になびいてこない彼に苛立って、亜希は声を荒げた。
と。
菫はしばらく黙ったかと思うと、「まさか、褒めて怒られるとは思わなかった」とワザとなのかどうなのか、目を瞬〔しばた〕かせてビックリした、とばかりに呟いた。
「亜希、スカウトするならもっとじっくり責めな。こういうタイプは 特に な?」
背後から聞こえた、部外者の声にビクリ、と彼女の背中がふるえバッとふり返る。
「 比奈さん! 」
どうしてここに?! と驚愕して彼の手にあるモノに納得する。
「コレ、今日の撮影に使いたいって聞いたから……持ってきてやったんだ」
喜べ、とばかりに彼はサングラスを外すと胸のポケットに掛けてニヤリ、と笑った。
1 ・・・> ファインダーの向こう側。2
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