Moonlight Piano #31


〜その後、ラスト・シーン〜
■「ジムノペティ」の続きです■
こちらの 「#31」 は、「ジムノペティ」の続きです。
彼の告白と、彼女の返事はずっと――決まっていたのです。
 #31 ・・・> ♯あとがき



 「帰る」と電話があってから、三日目だった。

 ふたたび、電話が鳴ってそこから聞こえた声に、小夜原なつき〔さよはら なつき〕は思わず呆れた。
「千住くん? いま、どこにいるの?」
 そして、間もなく返ってきた答えにさらに呆れた。
 なんて言うか――ここまできたらいっそ清清しいとさえ思ってしまう。
「 パリ? 」
 聞こえてくる千住貴水〔せんじゅ たかみ〕の声は、めずらしく苛立ったように頷いた。

『そうなんだ、ジャスのせいでね』

 ため息をつく気配が電話口から洩れて、よほど腹に据えかねたのだろうとなつきにも感じ取れるほどだった。
(千住くんをここまで怒らせるなんて…… あの人 のある意味、才能かもしれないわ)
 と、数えるほどしか会っていない貴水の音楽院時代の同期生、ジャス・フレミングを思い出して、思わず笑ってしまった。



〜 アラベスク 〜


 遠く離れた日本に繋がる電話口から聞こえるなつきの声は笑って、「何やってるのよ」と問いかけてきたから、貴水は困惑した。
(――それは、こっちが訊きたい)
 と、口にしたくてできない。

 それもこれも、あの三日前のジャスの イタズラ から始まったのだ。


 空港の公衆電話から、なつきへの国際電話が終わったあと、叔父である千住久一〔せんじゅ きゅういち〕に電話をかけようとして……ふとコートのポケットに見慣れない紙切れを見つけた。
 確かに、自分が入れたものではない。
 開けて、思わず目を疑った。彼がこんなことをする理由が理解できない。
(……いや、たぶん。理由なんてないんだろうけど)
 と、そう思うと脱力するしかなかった。
『 君の指輪は預かった。返して欲しくば、私のもとへ――。流離〔さすらい〕の友人、ジャス・フレミング 』
 指輪を仕舞ったはずの鞄の中を探ったが、その手紙が示すとおりなくなっていた。
 久一へ電話をかけて、詳しい事情は告げずに少し帰るのが遅くなることを伝えると、深く息を吐いて踵を返す。

 そうして、見送りにも顔を出さなかったジャスはどこに居たかと言えば、母国のフランスの実家だった。
 よりにもよって!

 追っかけてきた貴水をニヤニヤと笑って迎えるや、彼は開口一番「やっぱりね」と少し憐れむように見た。
「来ると思ったけど、来てほしくなかったな……センジュ」
 醜悪な傷を持つ友人が険しく睨むのを宥〔なだ〕めて、ジャスは肩をすくめた。
「ああ、けっして悪気があったワケじゃないんだよ。誓ってもいい……君は形にこだわりすぎる。だから、本当は指輪なんて気にせずに日本に帰ってもらいたかった」
「……悪かったな」
 ぼそり、と呟いて貴水は「で?」と先を促した。
「指輪は、すぐに郵送したよ。日本のなつきさん宛てでね」
 にこにこと悪気なく告げるジャスを本気で殴りたい衝動に駆られながら、それでも貴水は「わかったよ」と友人の餞〔はなむけ〕を素直に受け取ることにした。
「すぐに日本に戻るかい? センジュ」
 立ち上がった貴水を見上げて、からかうように言うジャスへ貴水は「当然だ」とでも返すように真面目に頷いた。
「小夜原さんに 伝えたい ことがあるからね」
「くっくっくっ、早く言ってしまえ。おまえに彼女はもったいないよ……そう気づいているだろう?」

「 まあね 」

 そんなことは、ジャスに言われるまでもなく解かってるんだ。
 ずっと――。
 そう思うと、今、どうして日本にいないのかと自分自身に腹が立つ。
 酷い傷のせいで、あまりその表情が目立つことはないのだが、自分の眉間にシワが寄っていることを自覚する。
 本当なら、とうに彼女に伝えられているはずなのに。
(僕に対する、 嫌がらせ か? ジャス……だろうな)
 迷惑な世話をわざわざ焼いた イタズラ好き の友人を恨めしく睨みつけ、貴水は背を向けた。
 「ふり返るなよ!」というジャスの掛け声が後ろで聞こえて、(君に言われたくない)と切実に思い(邪魔が入る前に 絶対に 帰ろう)と今度こそ強く心に誓った。


『郵便? ううん、まだ届いてないけど』
 電話口で不思議そうに言うなつきの声に、ひとまず安堵する。
「それ、開けないで。捨ててもいいよ」
『え? でも……千住くん??』
 めずらしい貴水の切り捨てた物言いに、なつきの方が戸惑ったように問い返す。

「今から本当に帰るから……待っててよ」

 電話の向こうのなつきは何かを言いたそうにしばらく沈黙して、結局「うん」とだけ短く答えた。


*** ***


 二度目の国際電話があってから、彼は今度こそ日本に戻ってきているらしい。

「小夜原先生、さようなら」

 前にレッスンをしていた男の子が横切っていくのを手をふって応え、なつきは耳に受話器を当てて相手の返事を急かした。
「で、どうなんですか。叔父さま、千住くん……戻ってきてるんですよね」
『ああ。今朝、こっちに着いたらしい。言っている間にそっちに行くだろうね……なつきさん』
 彼女からのよくある この種の 問い合わせに、慣れた様子の久一が電話口でくすくすと笑った。
 なつきの頬が染まる。
「だったらいいんですけど……」
 自分でも、どうしてこんなに落ち着かないのか解からない。
(ううん、本当は気づいてるのかも。だって――)
『なにかな? ヤツから何か言ってきた?』
「いいえ、まだ」
『そうか』
 まるで、すべてを察しているとでも言うように久一は頷いて……ふっと息をつく気配。
『 このあとの、君たちからの報告が楽しみだ 』

『――なつきさん?』


 遠く耳を離れた受話器から、怪訝そうな声が洩れて聞こえなくなる。


 かたん、と手から落ちたそれは電話の本器とコードで繋がっているがために床に落ちることはなかったが、床とスレスレのところを浮遊した。
「ただいま、小夜原さん」
 教室の出入り口に立った華奢な長身の彼が、帽子をとって醜悪な傷を晒した。
 黒髪に、闇色の瞳はいつも深く澄んでいる。
「千住くん」
「葉山」
「え?」
 すぐ傍〔そば〕までやってきた彼が綺麗に笑うと、なつきを見つめて、もう一度繰り返した。
「葉山貴水に戻ったんだよ、この意味……解かる?」

 そうして、顔を上げたなつきにはっきりと伝えた。


「 葉山貴水として、申し込むよ。小夜原さん、……僕と結婚してください 」



「小夜原さん、泣かないで」
 涙を拭う貴水の親指に、なつきは首をふって拒否を示すと、そのまましばらく伏せた目からさめざめと涙をこぼした。
「 小夜原さん 」
 困惑しきりな彼の声を耳にしながら、こくりと静かに頷いた。


fin.


 #31 ・・・> ♯あとがき

BACK