「不安にさせてしまったようだね」
黙って見守っていた久一が声をかけ、貴水が頷く。
「うん」
寝入った彼女を抱き上げ、扉のところで広がっている楽譜に目をやった。
「 美女と野獣の対話 」
拾い上げた久一が口ずさんだタイトルに、貴水はなつきの寝顔に残った涙を唇で吸った。
〜 ジムノペティ2 〜
目覚めると、そこは自分の部屋だった。
「小夜原さん、起きたの?」
声のする方へ目をやると、ベッドの傍らに貴水が座っていた。
そして、何事もなかったように笑って「落ち着いた?」と訊いてくる。
「ごめんなさい」
なつきは小さく謝って、それでも拭いきれない不安に目を泳がせる。
「僕は、ホッとしたけど」
貴水のよく分からない言葉に、なつきは首をかしげた。
「小夜原さん、ずっと何か我慢してるみたいだったから……勘違いしているみたいだけど、君が僕の邪魔をしたことなんて、一度もないよ」
「うそ」
「そう言うと、思ったけどね」
頑なに否定するなつきに、貴水は苦笑した。
少し寂しそうに目を細めて、彼女へと指輪を差し出すと、
「本当は、君に言いたいことがあったんだけど我慢しとくよ。今の僕じゃ、たぶん信じてもらえないし……ふられるのは一度で十分だから」
「……千住くん?」
なつきの左手の薬指に迷うことなく指輪をはめて、彼はなつきをまっすぐに見つめた。
「このツアーが成功したら、信じてよ。君がいるから、僕は頑張れるんだよ。無理じゃなくて、ね」
小夜原さんが欲しいから、と貴水は言う。
「でも、わたし。千住くんを困らせるよ……わがままだって言うし、知らなくてひどいことも言う。そんなことしたくないのに」
「小夜原さん、泣かないで」
ふたたびにじんだ涙を吸うように彼女の瞳に口づけて、貴水は起き上がったなつきをベッドへと押し倒した。
戸惑う彼女へとキレイに笑って、唇を重ねる。
「そんなふうに、もっと言って」
「え?」
「知らないだろうけど、君が嘘をつくと分かるんだ。泣きそうな顔をするから……するとね、気になって仕方なくなる。君が何を思っているのか、心配になって……ピアノも手につかなくなるくらい」
最後はすこし冗談交じりに、でも真剣な眼差しで彼は言った。
「僕は、そっちの方が困るんだけど」
だから、不安もわがままも全部口にしてほしい、と貴水は切実に訴えた。
「うそ」
今日、何度目かの否定は呆然とした声だった。
「ホント、だよ。何度も君の体に伝えているつもりなんだけど……足りなかった?」
胸を手のひらで包まれて、なつきの身体はぴくりと強張った。
「下には……」
「小夜原さんのご両親がいるけど、声さえ抑えれば上がってこないよ」
「わたし、自信ない」
そんななつきを貴水は見下ろして、その耳元に唇を寄せた。
「今、ここで避妊せずに君を抱きたいって思ってる」
「 ! 」
ドクッ、となつきはふるえた。
どこまでも静かな闇の瞳は、生真面目な彼らしく本気なのだと恐ろしささえ感じる。
「千住くん!」
「僕はそういう卑怯な男だよ、小夜原さん」
にこり、と笑って体を退ける貴水になつきは安堵しながら、胸が切なく締めつけられるのを感じた。
好きなのに、怖いなんて……。
「君を手に入れるためなら、手段を選ばない。――これだけは、「うそ」なんて言わないでほしいんだ」
「 君が好きだ 」
「うん」
頷いて、なつきは貴水の首に腕を絡ませてすがりついた。
唇をふかく合わせて、またしばらく泣いた。
貴水が帰ったあと、なつきは自分の部屋でそのまま泥のような眠りに落ちた。
「なつき、夕飯作ってるけど……食べる?」
「ごめん、今日はいい」
上がってきた母親に、部屋の中から謝って睡魔へと囚われる。
そういえば、最近……あんまり眠れていなかったのだと、ぼんやりと思い出した。
*** ***
「電話するから」と彼が言って、「待ってる」と答える。
空港の搭乗口で繰り返される別れに、なつきは笑っていた。
「じゃあ、行ってくるから」
「うん……いってらっしゃい。あ、千住くん」
離れそうになった彼の腕をとって、なつきは引き止めた。
「寂しいから、いっぱい電話してね。あと、早く戻ってきて……わたし、いっぱい泣き言言うから……だから、千住くんも泣き言言っていいんだよ?」
「そうする」
あんまり、格好悪いところは見せたくないけど、と貴水が小さく笑って、なつきの指にはめられた指輪に触れた。
「ツアーが終わったら、すぐに戻るよ。小夜原さん」
訴えるような真摯な眼差しを向けて、彼は指輪を撫でた。
「千住くん?」
なつきが首をかしげたが、貴水は何も言わずに手を挙げてゲートをくぐった。
fin.
♯29‐1 <・・・ #29-2
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