Moonlight Piano #29-1


〜その後、バレンタインピアノ〜
■「アヴェマリア」の続きです■
こちらの 「#29」 は、「アヴェマリア」の続きです。
強気な彼女の不安。
クリスマスから時は過ぎて、一年と少し。
ツアー前の彼と、彼女の関係はまた少し変化する――。
 #29-1 ・・・> ♯29‐2



 おだやかにすすむ時のなかで、喧嘩をしたり、不安になったり……泣きそうになって強がってみたり。
 気持ちを試して、愛を確かめる行為。
 苦しくて切なくて、本当は嬉しい。
 涙が出るのは、ひとつになれた「喜び」。
 それに、すぐにくる別れへの「悲しみ」。

 「欲望」と「欲望」の狭間にある純粋な「願い」という名の泉。
 そこから流れた一滴の「祈り」なのだと、思う。



〜 ジムノペティ1 〜


「……あっ、は。せ、んじゅくん!」
「小夜原さん……」
 裸になって身体を重ねて、何度確かめ合っても0〔ゼロ〕センチだった距離が離れる瞬間は、胸が痛んだ。
 いやだと、心が泣くのだとなつきは思う。
 困ったような、千住貴水〔せんじゅ たかみ〕の顔を仰いでまた、不安になる。

(ねえ? 千住くん。わたしの気持ちはあなたを苦しめてないですか?)

 訊くことが怖くて、彼にすがってしまう。
「小夜原さん、大丈夫?」
 醜悪な傷が全身を覆い、その顔までも侵しながら……長い黒髪から覗く闇の眼差しはいつだって、なつきの心を優しく包んで熱くした。
「うん、好きよ。千住くん」
 交差する視線の中で、貴水の目がすこし見開かれて、ゆっくりと彼女を確かめるように瞬いた。
「僕も、愛してる」
 小夜原さん、と囁く言葉と、息遣い。
 身体を翻弄しはじめる指先に、なつきの身体のあちこちが反応した。
 まだ、求めてくれるのだと思うとそれだけで、幸せになれる。

 千住くんは知らないかもしれないけれど……わたしはずっと、 ひとつ になっていたい。
 あなたと。
 そうすれば、苦しみも切なさも悲しみもなくて、きっとずっと笑っていられるから――。

 だけど。

 それが、貴水を束縛することだと知っているから口には出せなかった。
 特異な容姿と人を惹きつけてやまない音色。
 世界的に有名になった ピアニスト の彼だから。
( ダメ )
 首をふって、なつきは耐えた。


*** ***


 小夜原なつき〔さよはら なつき〕は、貴水の叔父である千住久一〔せんじゅ きゅういち〕が社長職を務める「千住プロダクション」の事務所に入って、迷うことなく社長室に向かった。
 本当は、駅で待ち合わせることになっていたのだが……朝の約束の際に、貴水が「叔父さんのところに話があるから」と言っていたのを思い出し、迎えに行くのも悪くないと思ったのだ。
 おおよそ二週間の貴水のオフも、明日が最終日となってしまった。
 明日、日本を発ってしまえば、また一年程度はヨーロッパを飛び回るコンサートのツアーに入ってしまって、会うこともままならなくなる。
 なつきは、今日が二月十四日ということもあり、手にプレゼントを持って驚かせようと社長室の前で息を殺した。
 すると、中から予想通りの彼の声と、彼の叔父の声が洩れ出てきた。

『……しようと思うんだ、だから』
『いいだろう。今回のツアーが成功すれば、おまえの名前も定着するだろうからなあ? それに――私も鬼ではないのだよ。なつきさんへの口止め料は、チャラにしておいてやる』
 おかしそうに笑う久一の声に、貴水はホッと息をついたようだった。
『じゃあ、このツアーが終わったら「葉山」に戻すよ? 叔父さん』
『 成功したらな 』
 くっくっくっ、と意地悪そうに言って……本当には、そうは思っていない口ぶりでからかった。
『おまえは、なつきさんに弱い。彼女のためなら、私と契約もするし、姓だって「千住」のままでいるんだから』
 あてられる、とそれはそれは厭味をこめた大きな独り言。
『放っといてよ』

( うそ )
 貴水のいつもと変わらぬ淡々とした喋りに、なつきは息を呑んだ。
(……わたしの、せい?)
 なつきの卒演のあと、貴水が叔父の久一の事務所と専属契約を交わしたのは、彼の意思だと思っていた。それに、「葉山」姓に戻さなかったのも……。

『ああ。ごめん……当分はないと思う』

 なつきが「葉山」には戻らないのかと墓地で訊ねた時の貴水の困ったような微笑みを、思い出す。
 本当は、戻したかったのに戻せなかったの?
 本当は、もっと自由に弾きたかったのに、弾けなかったの?
 本当は、ツアーなんてしたくないのにするの?
 ツキン、と胸が痛んで、なつきは手にしていた貴水へのプレゼントのつもりだった楽譜を落としたことにも気づかなかった。
「……小夜原さん?」
 気配に気づいた貴水が扉を開けて、そこに立つ 彼女 に瞠目した。
 瞳を泳がせて確認する。
「いつから、ここに?」
「さっき……ねえ? 千住くん」
 すがるように見上げてくるなつきに、扉に手をかけて華奢な長身を預けた彼は目を見開いた。
「わたし、邪魔だった?」
 「え?」と貴水は困惑して、なつきを見下ろした。
「叔父さまと契約したのも、「葉山」に戻さなかったのも……わたしがいたから? 今回のツアーもわたしのせいなの?」
 なつきのふるえる肩に手を置いて、貴水は首をかしげた。
 どうして、なつきがこんなにも不安定になっているのか分からないとでもいうように。
「小夜原さん、どうしたの?」
「千住くんは優しいから……わたし、ひどいこと言ってるのに黙ってたのね? 「冷たい」とか「寂しい」とか言って困らせてた。今回のツアーだって、本当は行ってほしくないって気づいてたでしょ?」
 なつきの目から涙がこぼれて、貴水は途方に暮れた。
「気づいてたよ、でも僕は――」
「いいの。わたし……邪魔ばかり! 千住くん、これ返す。ツアー無理しなくていいんだから……わたし、千住くんの邪魔なんてしたくない……。そんなことしたくないのっ」
 プラチナのシンプルなデザインの指輪、大学の卒演のあとに貴水がなつきに贈ったものだった。
 つきかえされて、貴水はなつきの腕をとる。
「ちがうよ、小夜原さん」
「でも!」
 興奮するなつきの唇を唇で塞いで、貴水は彼女を腕に閉じこめた。
 放せば、飛んでいってしまいそうななつきのむき出しの心を捕らえる。
「信じて。僕は無理なんてしてないよ……小夜原さん」
 最初、抗っていたなつきも貴水の力に抗いきれずに、しがみついて、息を殺して泣いた。
「……ふっ、……うー」
 泣いて、泣き疲れて眠るまで、貴水は彼女に付き合った。


to be...


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