電気を落とされた薄暗いホールの舞台の上、わずかの非常灯と淡い緑光の予備灯だけがグランドピアノを照らしていた。
「どうして、黙ってたの? ……飛行機のチケット無駄にしちゃったじゃない」
茜色のロングドレスを着たままの姿で小夜原なつきは、恨みがましくピアノの前で椅子に座る千住貴水へと言った。
上着を脱いだシャツを着崩した格好で、貴水は顔を上げた。
そのすぐ前に立ち、ピラリと一枚の招待状を垂らす。
「何、これ?」
「千住くんの「歓迎会」ですって。日間くんが企画したのよ、ちなみに今日の夜7時からだから」
貴水が何も言わずに招待状を受け取ったものだから、なつきは訊かずにはおれなかった。
「ひとつ。気になってることがあるんだけど……いい?」
「何?」
「日間くんはどうして知っていたの? 千住くんのこの話」
「ああ……会ったから」
なつきは相変わらずの貴水の答えになってない答えに、眉をひそめた。
「会った?」
「うん。その時にたまたま、そういう話になってね」
どうやったら たまたま 、そういう話になるんだろう? と、なつきは不思議で仕方なかった。しかも、貴水と八尋がそれほど親しかったとも思えない。
彼女の困惑を見て取って、ぷっと貴水は吹きだした。
「そういうトコロ、小夜原さんって鈍いよね」
くすくすとおかしくって仕方ないとばかりに、彼が声を立てて笑うから……ムッ、となって、なつきは問い詰めようと口を尖らせた。
が。
「ひゃ……!」
ガクン、と体勢を前かがみに崩して、悲鳴を上げる。
貴水の腕によって腰を引き寄せられたなつきは、彼の肩に手をついて、怒ったように言った。
「千住くん、わたしの話聞いてた? 「歓迎会」は夜7時からなんだけど!」
この体勢はなんだろう、と抗議するなつきの表情は、案外まんざらでもない様子で彼を見下ろした。
「聞いてる。大丈夫だよ、主役がいなくたって彼らは困らないんだから」
さも、当たり前だよとばかりに答えた貴水は顔を上げ、そばまで下りてきたなつきに微笑んでみせた。
長い前髪に隠れた闇の瞳と、火傷の傷痕を晒した顔は醜悪でありながら、いつだってキレイに笑う。
額と額がコツンと当たって、なつきも笑った。
〜 ユモレスク 〜
「言えてる」
次に唇が浅く合わさって、すぐに離れた。
「だろう? だったら少しくらい待たせてもいいんじゃないか?」
「ん」
唇を優しくなめて中に入ってくる彼の礼儀正しい舌に、なつきは声を上げそうになって耐える。
立ったなつきの足を割る、彼の膝。
抱き寄せるくせに、貴水はそこから膝を外そうとはしなかった。
だから、跨るしかなくて……ロングドレスの裾が持ち上がって、勝手に乱れた。
「千住くん……あっ」
脚を滑る彼の指の感触に、恥ずかしい声が止まらなかった。
存在を確かめるようなゆっくりとした手の動き、ドレスの裾はめくり上げられてなつきの太腿まで露にした。
首筋にキスを受けて、背筋と脚の付け根にすべりこむ低温の細く長い指先を感じる。
中心が熱くなる。
震える身体で貴水にしがみついて、なつきはやがて来るだろう久方ぶりの感覚に目を閉じた。
(着替えは無駄にならないみたい……)
と、熱くなる思考の中、持ってきた旅行鞄の中身をぼんやりと思い出した。
*** ***
「歓迎会」の会場で、日間八尋は壁に掛かっている時計を見て「そろそろかな」と店の出入り口に視線を遣った。
時刻はすでに、会が始まってから一時間を過ぎて8時すぎになっていた。
が。
主役の二人はまだ、姿を現していなかった。
ある意味、コレは予想の範疇だったので勝手に開会していたりもするわけで、会場内は主役そっちのけで歓談が始まっていたりする。
「ちょっとー、日間くん。貴水くんと小夜さんまだ?」
給仕の役をしていた鈴柄愛が言って、不満そうに唇を突き出した。
「わたし、貴水くんの演奏も聴かないでコッチの準備に走ったんだよ? もうっ」
腰に手をやった愛へ、給仕を手伝っていた美月綾がブツブツと不平を言った。
「そうですよー、僕だってそれで騙されたんですから……すっぽかされるなんてナシですよ」
「あー、まあ……それは五分五分なんだけど」
と、八尋は愛と綾の眼差しに困って、出入り口近くの窓の外を確認する。
(何しろ、この会はほぼ嫌がらせに近いしな)
その時。
闇に映った人影に、満足して微笑んだ。
「おっと、安心したまえ。主役二人のご到着だ」
遅れて到着した主役に八尋は呆れて言った。
「おいおい、小夜原さん……まさか、また喧嘩した、とか言わないだろうね?」
「……なによ、悪い?」
キッと八尋を睨みつけて、二次会の会場であるいつもの『メルメゾン』のカウンター席に座ってグラスを手のひらでいじっていた。
ぐるぐると回る氷に、なつきの思考も回った。
「千住くんが悪いのよ、……だって、そんなのってない。わたしの気持ち、ぜんぜん分かってないんだから」
「まったく君たちときたら――まとまったかと思えば、すぐコレなんだから」
肩をすくめて八尋は言って、チラリと後方をうかがう。
片隅のソファ席に座った貴水には、愛のほか彼のファンらしい女学生たちがキャワキャワと取り囲んで、さらには野次馬のようなギャラリーが集まっていた。
「それだから、他の輩につけこまれるんだよ。諦めたくても、諦める機会を与えてくれないんだからさ……」
まったくタチが悪いよね、とグラスに口をつけて責めるように言った。
「で、どうするつもりなんだい? 小夜原さん」
「どうする、ってどういう意味?」
「もちろん、千住と仲直りするのか、ほかの女に譲るのかって話だよ。俺としては、君がフリーになるのなら……千住がほかの誰と付き合っても 大歓迎 だけれど」
面白がるように試す八尋に、なつきは顔を背けて吐き出した。
「 意地悪なんだから 」
そりゃあ、意地悪もしたくなるさと思いながら、八尋は口にするのはやめておいた。
「小夜原さん」
『メルメゾン』を出たところで、貴水が呼んだ。
周りには、まだ女の子を侍らせながら……まっすぐに少し離れたなつきに目を合わせる。
「――送るけど、どうする?」
「 うん。送って 」
貴水に駆け寄ると、なつきはその腕に腕を絡めた。
*** ***
「あーあ」
と、愛が嘆く。
それでも、最後に見た彼ら二人の後ろ姿はやっぱりお似合いのような気がして、仕方ないとも思えた。
「未練がましいな、わたしも……」
空を仰いで、白い息を吐いた。
「よぉし! 三次会行くよーっ。「美月綾」傷心会だー!!」
綾の腕を容赦なく捕まえると、
「なんで、僕の傷心会なんですかっ!?」
と、彼は情けない声を上げて抗議したが……結局、受け入れられなかった。
沈黙したまま、なつきは貴水の腕を離すまいとしがみついた。
「小夜原さん」
「なによ? わたしはまだ、怒ってるのよ!」
「うん、ごめん。でも、コレだけは小夜原さんに渡しておきたかったから」
コートのポケットから貴水が差し出した小さな箱に、なつきはどういう意味か分からなかった。
「僕は明日発つけど……いつか、君を攫〔さら〕いに来るから」
箱の中には、何の飾りもない指輪がひとつ。
「だから、覚悟しておいてほしいんだ」
と、彼はコートを広げて、彼女をそっと抱きしめた。
fin.
#あとがき <・・・ #24(完)
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