時々、傷痕が痛むことがあった。
〜 木枯らしのエチュード 〜
当初、頻繁だったそれは、あの火事の一夜から時を経るほどに回数が減っていく。当たり前のことだ……けれど、間があけばあくほど……不意をついてやってくる痛みは、深く心を抉〔えぐ〕る。
忘れていた。
こんなにも、辛いことを――それを、教えるように全身の傷が心を苛〔さいな〕むから、思い出す。
忘れていたのに。
ずっと。
おぼろげにしか、思い出せなかった……なにもかも。父の顔も、あの炎の熱さも、肌を焼く死に逝く人の匂いも。
もう二度と 聞こえない と思っていた――あの人の 声 も。
*** ***
(あ……ダメだ…泣く)
おぼろげだった記憶は、何故かいま、鮮明に思い出された。
母の葬儀を終えてからだ……ピアノを弾くと、あの時の父の顔がはっきりと脳裏に蘇った。幼かったあの頃は、恐ろしいとしか思わなかった感情のない横顔。
いつもは温厚で優しい人だったのに、あの夜はまるで狂ったように怒鳴って聞き入れてもらえなかった。事実、狂っていたのだろう、とあとで叔父の久一から知らされたが……母親からも拒絶され、ひどい火傷の後遺症に身を焼かれた貴水にはどちらでも構わないことだった。
どちらにしても、あの時、父親から見捨てられたのは間違いない。
『おとうさぁん……!』
呼んでも、返ってくるのは否定するかのような眼差しと狂った声。
『ピアニストとして失格だ……私もおまえも……』
ガツンとした、痛み。
鼻をつく異臭。頬を流れる水のような感触。
迸る炎に身を焼かれる、何度も振り払うけれど次第に動けなくなる。
( イタイ……アツイよ、タスケテ…… )
薄れゆく意識の中で、誰かに守られているような気がした。
( ……お、かぁさぁん )
母親が守ってくれた 記憶 はない。事件のあと、貴水を見た水江はひどく取り乱して、すがりついた息子の手を振り払った。母親に「触らないで!」と喚かれて、傷つかない子どもはいない。
醜く爛〔ただ〕れた姿を鏡に映して、泣き方すら思い出せなかった。それまで、優しく抱きしめられたことしか知らなかった貴水にはどちらが夢で現実なのかさえ、わからない。
だから、幸せだった過去をすべて 夢 だと思った。
現実が辛いだけなら 幸せ だった頃を思い出さないほうがいい。
おぼろげだった記憶。あの――何もかもが 幸せ だった夜のことを思い出した。
あたたかな両親の愛情。
「早く寝なさい」と母親が急かし「おやすみなさい」と言ったら、リビングのピアノの前に座った父は「おやすみ」と穏やかに笑った。まるで、どこかに消えてしまいそうなほど儚くキレイな微笑だった。
そして、母親に背中を押され、追いやられた扉越しに聞こえてきたピアノの旋律は絶望的で……とても、美しかったショパン。
「あなたは 馬鹿 だ」
と。貴水は弾き終えたピアノに頭〔こうべ〕を垂れ、呟いた。息があがっている。
あの、父親の 演奏 を超えることは生涯ないと思えた。
遠く喝采が聞こえて、顔を上げた。傷を隠すことをやめた、その醜悪な顔を――きっと、彼女も見るだろう。
fin.
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