Moonlight Piano #番外-lines


〜千住貴水視点「恋をしにきたんだ」〜
■『raison detre』さまにご協力いただきました■
こちらの 「#番外-lines」 は、
「HPでセリフなお題」を使用した「Moonlight Piano」の
拍手用オマケ番外/加筆修正版です。
『raison detre』雛瀬智美さまの作品
『sinful relations』に協力をいただいたなつき視点の姉妹作品(笑)。
こういう展開になるあたり、陰気な ヤツ らしいところ?



 もともと、そこにはあまりいい思い出がない――。

 長く真っ直ぐにのびた廊下、色のない世界、スリッパが床をこするかすかな音と遮断されたような閉塞感……時間ばかりが着実に過ぎていく景色。
 鼻につく、いつの間にか嗅ぎ慣れた薬品の匂い。

 永遠の「別れ」を象徴する、白い部屋。



〜 花の歌 〜


 朝、彼が目を覚まして最初に見つけたのは女の長い髪だった。
 腕の中にあるふにふにとした、やわらかな感触。あたたかな体温、静かな鼓動。
(……え?)
 思考回路がうまく繋がらない。
 彼、千住貴水〔せんじゅ たかみ〕にとってそれは まったくの 未知との遭遇と言おうか。
 同じベッドに女性がいるなんて――。
(なんで……うそ、だろう? あるいは、夢とか……)
 そうして、サラリと流れた長い黒髪から覗いた白い肌とその 顔 にかってない動揺を起こす。
「な!? ぅわっ」
 思わず、後ろに仰け反って、ベッドから落ちた。ごぅん、と床敷きのカーペットに頭を打ちつけて、そのやわらかい衝撃にコレが夢でないことを知る。
 そして。
「い、てぇ……」
 呻いて頭を抱え、ここが見知らぬ場所だと気づく。見慣れないベッド。見慣れない壁。見慣れない部屋……そこは、彼の知る 自分の 寝室ではなかった。

「貴水くん?」

 と。
 彼の騒ぎに覚醒した よく 知る彼女は、ベッドの下で腰をつけて見上げている、彼の、途方に暮れた その 情けない表情に首を傾げた。

「さ、よはらさん?」

 亀水東高校音楽部、ピアノクラスのクラスメート。美人でピアノが上手く意思の強い彼女、小夜原なつき〔さよはら なつき〕は学内でも人気が高い。憧れはしたけれど、こんな関係になる予定はなかった。
 「彼」にとって、それを望むのはあまりに分不相応だ。
 なのに。
 ベッドから下りた彼女は眉をひそめてその綺麗な顔を近づけると、彼の素肌に触れる。
 素肌……包帯を巻いていない素の肌。その醜くひきつれた額に躊躇いもなく手を伸ばし、彼の長い黒髪を上げてコツンと額同士をくっつけた。
 思わず、唾を呑みこんで貴水は真っ白になった思考を懸命に働かせる。
 ともすれば別のコトに飛びそうになる思考に、必死だった。
 なつきの姿は、かろうじて裸ではない。薄い布地の広く胸の開いたブラウス……たぶん、下には何もつけていないと思われた。寝間着だとしても――どうだろうか?
(こんな格好、僕の前でしたらダメだ……小夜原さん)

「 変ね 」

(変なのは、君だ……)
 少し、大人びた表情。学生ではなく、成長した大人の女性が持つ落ち着いた声。
 彼女だと思ったが、厳密に言うと 貴水 の知る彼女とは趣が違った。
「……小夜原さん?」
「ねえ? どうしたの? 貴水くん」
「君は、小夜原……なつきさん、だよね?」
 ハッ、と目を見開いて次に彼女はカッと鮮やかに怒った。「バカ!」と怒鳴って……パン、と頬が鳴ると貴水は彼女の平手を受けた頬を撫でて呟くしかなかった。
「ピアニストの手で叩いたらダメだよ、小夜原さん」

「……信じられない。ホントの本気で言ってるの? 千住くん」

 そう呟いたなつきの声がわずかに震えていたので、貴水はなんだかたまらなく申し訳ない気分になって「ごめん」と醜悪な顔を歪めた。


*** ***


「そりゃあ、貴水くんを驚かそうと思って何も説明しなかったのは悪かったとは思うわよ。電話で病院に呼び出したのも、……アレはちょっと趣味が悪かったかもしれないけど……だからって、キレイさっぱり忘れることないじゃない」
 互いに落ち着くためにも床ではなく、ベッドに座った二人はそれぞれに突きつけられた事実に衝撃をうけた。
 学生の頃の記憶しかない葉山貴水〔はやま たかみ〕は、いつの間にか夫婦になっていたなつきにそんなふうになじられて、恨めしげに見上げられ、どう答えていいか分からない。
「……ええっと、病院?」
 彼女の体のどこかが悪いのかと、ふと心配になる。
 そんな彼の気遣う心情を察してか、なつきは「もうっ!」と仕方ないなあ……とでも言うような複雑な笑みを浮かべた。
「心配するようなことじゃないってば! 千住くんとわたしは結婚してるんだから」
「僕としては、その事実が 一番 呑みこめないんだけど」
 むっ、となつきに強く睨まれて、口を閉じる。
 そうか。
 確かに、彼女はこういう有無を言わせないトコロがあった……と思い出す。

「夫婦だったら、当然のことよ。だけど、貴水くんは本当は嬉しくなかったのかも」

 彼女らしくない、ひどく弱気な言葉に貴水は意外に思った。
「え……どうして?」
「病院で――あなたは説明しなかったこと、笑って許してくれたし喜んでくれたけど……貴水くんは優しいから、わたしに遠慮したのかも。本当は、赤ちゃんなんて欲しくなかった?」
 まっすぐに貴水を見つめて、なつきは訊いた。
「………」

「欲しくなかったの? ねえ、千住くん」

 ぽつり、と涙を浮かべてなつきは彼の答えを待った。
「そうじゃないよ、小夜原さん」
 彼女の強くまっすぐな瞳に浮かんだ涙を細く長い指で拭って、貴水はふわりと儚く微笑んだ。
 きっかけは、客演から戻った空港での 電話 からだった。
 病院に呼び出されて、病室に案内される。
「そうじゃなくて……怖くなったんだ。あの瞬間――僕は夢のように幸せだった。だから……それが、壊れたらどうなるのか。たとえば、君がいなくなったら……僕はどうなるんだろう」
 それなら、最初から出会わなければよかったのだろうか。

「 相変わらず、君はすごいよ。小夜原さん 」

 急に口調の変わった貴水に、なつきはついていけず思わず涙が止まった。
「――千住くん、思い出したの? それとも、コレが昨日のわたしへの報復?」
 彼は首を振って、謝る。
「……ごめん、なつきさん。君を泣かせるなんて、僕はまだまだだな」
 黒髪の下にある、深い闇の瞳。
 優しく彼女を映す眼差しは、後悔で少しくもっていた。
「記憶が、君と出会った頃に戻ってた。夢と混乱してただけなんだ……君に頬を叩かれて、少しずつはっきりした」
 眩しそうに目を細め、「やっぱり、君はすごい」と口にする。からかわれでもしているのか、そんなふうに貴水にくすくすと笑われると止まっていた涙が、途端に頬を流れた。
 安心したのと、嬉しさと、ないまぜになった恥ずかしさがやってくる。
「ど、どういう意味よ。人騒がせなのよ、バカ」
 まさにその通りなので、苦笑するしかない。
「どういう、って君の平手は強烈だって話。それに、涙も……泣かないで」
 ぐい、と涙を拭われる心地よさ。
「 貴水くんのせいよ 」
 胸に顔を埋めたなつきの肩を貴水は「うん」と抱き寄せ、「ごめん」と彼女を確かめるように撫でた。


 何度だって、僕は失敗しては救われる。
 かけがいのない、 君 という 存在 に。
 君という幸福〔しあわせ〕に出会わなければ 意味 がない。
 音楽も。ピアノも。

 僕は、君に――恋をしにきたんだ。


「 ――僕は、僕の子どもをなつきさんが産んでくれたら、嬉しい 」
 これ以上の、喜びはない。
 しっかりしないと。
 そう、強く思う。
 貴水の囁きに顔を上げたなつきは潤んだ目のまま頷いて、彼の真摯な唇を受け入れた。


fin.

BACK