そこにピアノがあることに気づいたのは、夏の初めのことだった。
旧校舎の古い舞台の上に置かれたままだったピアノは、古いくせに奇跡のように美しい音を響かせる。旧校舎のホールはボロボロのくせに音響がいいのだろうか。
高い天井と、階段のある壁には格子の入った高い窓。
新月に近い月の淡い光が差しこんで、舞台の床を照らした。
ポーン、と鍵盤を叩くと澄んだ音が闇の中に溶けていく。
くすくすくす。
どこからか、幼いような少女の笑い声が聞こえたような気がした――。
〜 キラキラ星変奏曲 〜
亀水東高校の音楽科、ピアノクラスに入って千住貴水〔せんじゅ たかみ〕はすぐに一人のクラスメートを知った。
長い黒髪と少し気の強そうな黒の眼差し、舞台映えのする美貌と伸びやかな響きのピアノはピアノクラスの誰よりも楽しそうだった。
「ありがとう」
と、まともに顔を合わせたのは貴水の足元に彼女・小夜原なつきの鉛筆がたまたま転がってきた時だった。
にっこりと笑うと、なつきはまっすぐに彼を見て礼を言った。
そして、すり抜けて行く。
長い髪が流れて、尾を引いた。
「なつきー、遅いよ」
「ごめんごめん、お待たせ」
騒ぎ立てる友人をなだめて、なつきは移動を促した。
そんな彼女を見送って、貴水は生きてはじめてまともに人に接したような気がした。この姿になってから、叔父である久一以外の人間で目を合わせて貰った記憶はあまりない。
あったとしても、医者だとか看護婦だとか……接する機会の多い相手ばかりだ。
クラスメートの中で、彼とあえて目を合わそうという人間はいなかった。
異端だと一線を引かれたり、陰口を叩かれることはあっても――礼を言ってくれる人間はいなかった。
(目が合っただけで、普通に怯えられることはあったけど……)
この姿では、仕方ないことだと半ば諦めていたのに。
( ああいう女の子もいるんだな )
と、妙に感心した。
もともとなつきはよく目立っていたけれど、貴水を外見から異種扱いしない意味でかなり特別だった。もちろん、好きとか嫌いといった次元の話ではない。
(特別だったけど。
ただそれだけの存在だったんだ、彼女は)
『 おにいちゃん 』
と、幼い声で彼女は言って手を差し出した。
手の向こうが透けて見えて、声ほどは幼くない……たぶん、昔ここの生徒だったと思われる……ツインテールの少女は、現実には存在しない相手だった。
貴水は案外、この手の経験が多いのでビックリはしなかったが、流石に手を差し出されたのははじめてだった。
『 手つないで。 』
ユラユラと揺れる姿にねだられると奇妙な気分だった。
しかし、自分も幽体のことをとやかく言えるような姿ではないので、応じる。
すると、少女は微笑んでさらにねだった。
『 あたまなでて。 』
存在感のない頭を撫でるつもりで動かすと、要求はさらにエスカレートした。
『 ぎゅってして。 』
「は?」と固まった貴水に、少女はさらにとんでもないことを言ってくる。
『 ちゅーして 』
「………」
暗に非難をこめた眼差しになって、貴水は自身の軽率な行動に後悔さえよぎった。
悪い感じはしないが、だからといってこちらに害がないとは限らない。
「それは、駄目」
『 どうして? 』
ブー、と唇を突き出して、頬をふくらませた幼い仕草の少女は貴水を見上げて不満そうだった。
「どうしても、だよ。駄目なものは、駄目なんだ……諦めな」
『 ……じゃあね。おにいちゃん、ひとつ、おねがい 』
上目遣いで彼女は、彼を見上げた。ふわりと浮かぶ姿は、そのうちに彼の背を越えた高さで消え、古いピアノの上で現れる。
『 ピアノ、ひいて。なんでもいいから 』
くすくすくす、と少女は笑って、挑むように見下ろした。
『 ねえ? はやく―― 』
本当は、どうしたものかと考えあぐねていた。
弾いたら最後、本当は悪い霊で憑り殺されてしまうのではなかろうか。
じっ、と耳をすませている少女に首をふって、貴水はピアノの席についた。ポーン、と鍵盤が奇跡の音を鳴らして、指が踊った。
目には、もう彼女の姿は見えなかった。
くすくすくす、と笑う気配と、声だけが耳に響く。
『 おにいちゃん、わたし……おにいちゃんのピアノだぁいすき! 』
――だからね、ときどきひきにきて。やくそく。
それを最後に、幼い少女の声も消えた。
*** ***
あっ、と小夜原なつきは声を上げそうになって耐えた。
ギュッ、と頭の上に束ねられた両手に力がこもってふるえる。
「……たか、み……くん……ぁや、ん!」
控え室のドレッサーの台のところで腰を乗せた彼女は抵抗しながら、本当には嫌がってはいなかった。ひどく爛〔ただ〕れた皮膚の彼の首筋に額を埋めると、少しはだけたシャツの下にある鎖骨に唇を寄せる。
「なつきさん」
彼女を鏡に張りつけた彼は、少し強引に呼んだ。
「外に聞こえるよ、我慢して」
ヨーロッパツアーの最中だった。
婚約中の彼らは時々人目をしのんでは、こういうことをして互いの温度を高めた。演奏にそれが影響するかは、あまり問題ではない。
二人にとっては、スキンシップみたいなものだった。
人のざわめきが残る扉の向こうに目をやりながら囁く声に、なつきは首を持ち上げると醜悪な傷のある特異な姿の彼を映した。
「ん。でも、貴水くんも協力してくれなきゃ……ねえ?」
そして、まっすぐにねだる。
「キスして」
深く、口づけて葉山貴水は目を細めた。
「 あれは、ピアノの精だったのかな 」
キスの合間に、ふと思う。
「え?」
(あるいは、おせっかいな 天使 かもしれないけど)
なんの話? と首をかしげる彼女をアッという間に攫って、貴水は「なんでもないよ」ともう聞こえていないだろう彼女に相変わらずの答えになってない答えで笑ってみせた。
fin.
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