久方ぶりの二人っきりの外出に、恋人時代を思い出してなつきは(そうだったわ)と嘆息した。
出産してから、なかなかのんびりとした時間が過ごせずにいる 娘 のために、と 母 が提案した今回の「大義名分」。彼がどのように解釈しているかは、なつきには解からないけれど……どちらしても、彼女の朴念仁な夫には関係がない。
「貴水くん!」
耐えかねて、なつきが呼ぶと彼はふり返り不思議そうに……その、知らない人間が見れば目を背けてしまいそうな傷痕のある顔を傾けた。
醜悪な、けれど彼女の心を惹きつけてやまない儚くてキレイな微笑み。
「どうかした? なつきさん」
唇を突き出して、「手も握ってくれないって 問題 だと思うの」と恨みがましく小さな声で口にする。
せっかくのデートなのだ。
彼には、そういう意識がないのだろうか?
なつきの言葉が届いていない 彼 の困惑しきった顔で一目瞭然だが。
「ないのよね、信じられない! もうっ」
イライラと焦れる気持ちを理性で抑え、平手を挙げそうになるのを食い止める。
(……そりゃあ、知ってるわよ。貴水くんがこういう 人 だってことくらい。――でもね?)
「あ、疲れてるんだったら、僕だけで行ってくるけど?」
( ソレ はどうかと思うのっ!)
キッ、と睨んでなつきは「疲れてなんかないわよ!」と歩き出し、彼の横を追い越して改札口へと向かった。
( 貴水くんの、バカ! )
〜 2台のためのピアノ・ソナタニ長調K.448 〜
「 ? 」
学生の頃ならば、確実に平手が飛んでいたタイミングだったが……彼女も母親になり 成長 したのだろう、どうしてなつきが不機嫌になったのか サッパリ 解からないまでも貴水はそんなことを考えて、笑う。
怒って先を歩いていた長い黒髪が揺れて、うかがうように後ろの彼をふり返る。
その背中を(抱きしめたいなあ)と思うものの、人目のある駅の構内でできるワケもなく貴水は「なによ?」と剣のこもった声に首を振って、その手を取る。
細く長い指が絡まり合うと、言った。
「急ごう、なつきさん。電車が来るよ」
足を速めた貴水に引っ張られたなつきが、「ずるいんだから」と 何か を言ったような気がしたが、プラットホームのアナウンスにかき消されて 最後 までは聞き取ることができなかった。
*** ***
二人がやってきたのは、たくさんの楽器を扱っている店のテナントだった。広い場所に展示された数々の名器に目移りして、感嘆の息を吐く。
ピアノ、だけじゃない。ヴァイオリンといった弦楽器に、フルートといった吹奏楽器、シンバルや太鼓といった打楽器も品揃えが豊富だった。
しかし。
「すごい、触ってもいいのかしら?」
と。久しく、こんな 空気 に触れていなかったなつきが足を止めたのは、やはり ピアノ の前だった。
並べられたピアノのひとつに立ち止まって訊くと、若い店員はにこやかに「どうぞ」と促す。
指に馴染むやわらかな鍵盤に触れると、澄んだ音が空気を浸透するように溶けていく。
(いい音――)
なつきの唇が弧を描いて、指が勝手にあるフレーズを奏でる。
「なつきさん」
声を聞いて、なつきは向かいのピアノに立った貴水と目が合った。彼は、チラリとなつきの横につく店員に目を向けると、「少しの間、ピアノをお借りしてもいいですか?」と訊く。
「え、ええ。ど、どうぞっ」
慌てたような声に、なつきは(無自覚なんだから)と呆れた。畏まって緊張しきりの 店員 を気の毒に見遣〔みや〕る。
千住貴水〔せんじゅ たかみ〕と言えば、世界でも名の知れたプロのピアニストだ。その特異な容姿とともに顔も知られているし、勿論ピアニストとしての評価も高い。
結構なネームバリューを持つ 彼 に、そんなふうに言われて断れる店員がいるなら、それは余程の 無知 か 酔狂 だろう。
(……でも。貴水くん らしい けど)
椅子に座ったなつきを見届けてから、彼は音を出した。
陽気なメロディは追いかけっこを誘う子どものように無邪気に近くまでやってきて、彼女の手を引く。
『 行こうよ 』
貴水に誘われれば、なつきの 答え はひとつしかない。
『 うん 』
手を引かれるままに、走り出す。
丘を駆け上がって、追いかける背中。広がる空には、白い雲が靡いて、草の匂いがする風が吹く。
追いかけて、追いついて、追い越したかと思えば、逃げる音の波。
走ることが気持ちよくて、楽しくて、捕まえることに 夢中 になる。
息切れしても、転んでも……手を差し伸べて、待ってくれる その優しい手 を握る。
『 ねえ? どこまで行くの? 』
『 どこまでも…… 』
『 どこまでも? 』
『 そうだよ。この先……ずっと、ずっと 向こう まで。きみと一緒にぼくは行くんだ―― 』
なんて。
くすり、と思わず笑ってしまってなつきは(この曲って、そんなイメージだったかしら?)と可笑しくなった。
貴水の奏でる音が示す先がなんなのか、なつきには解からない。
彼の音はいつだって、彼女のはるか上を簡単に飛び越えていける……だから、こんなふうに一緒に走ることができるのは、彼が 意図的に 手を貸してくれているからだと解かっている。
(本当に、相変わらず 憎らしいほど 上手いんだから――)
と、憎々しく思いながらも、魅せられてしまうのもいつもの こと だった。
そこが店の中で、誰かがいることさえ頭から抜け落ちて、あるのはピアノの無限の音だけになる。
心地よくて、ほんの少し妬ましい……彼のピアノの歌声を聴いて、また彼女もピアノを弾きたいと 強く 願った。
*** ***
店を出て、腕を上機嫌に絡めてきたなつきに、貴水はすこし不可解そうにその手の中のものを見る。
「なつきさん……それだけで、よかったの?」
「そうよ」
と、彼女は答えて手に持ったパンフレットを満足そうに鞄に入れる。
「これ、だけでいいの」
なつきの母が経営しているピアノ教室に新しく入れるピアノの選定を二人は仰せつかったワケだが、何も「すぐに」という話ではない。それほど大きい規模ではない教室でピアノ一台は大した買い物だし、ゆっくりと選んでも誰も咎めたりしないのだ。
「ふーん」
ひとしきり悩んだらしい貴水は 意図 を理解したのかいないのか、顔を上げると長い前髪を指で梳いた。
「そうか」
「……ごめんね」
真面目な 彼 の性格だから、本当に 真剣に 付き合ってくれたのだと思うと申し訳なくなった。
すると、彼はうかがうようななつきに目を向けて、不思議そうな顔をする。
「どうして、謝るの?」
「だって、あなたを付き合わせるような用事じゃなかったわ。だから――」
早く帰りましょ、と足を速めたなつきに貴水が腕を取って、制する。
「 待って 」
「え?」
驚くなつきの鞄をスルリと奪って、「少し寄り道して行こうよ」と悪戯っぽく笑いかけた。
fin.
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