どんな彼でも……受け入れる。
それは、少しも難しいことじゃなくて……当たり前のようにある特別な感情。あなたがわたしの中で眠って、笑ってくれるならそれだけでいいから。
だから、お願い。
離れないで、そばにいて。
弱くても、強くても――わたしは、あなたが 好き だから。
〜 木枯らしのエチュード 〜
スッ、と身体を離した彼に小夜原なつき〔さよはら なつき〕は「ダメ」とばかりに手を伸ばして、その醜悪な傷痕の残る葉山貴水〔はやま たかみ〕の首筋にしがみついてベッドへと引き戻した。
キスだけで終わらせようなんて、許さない。
「なつきさん」
彼の前髪から覗く闇の瞳が困惑していた。ここ数日の彼は、いつにも増して消極的でなつきを苛立たせる。
「どうして?」
少し強めに問いただせば、さらに貴水の瞳は困ったように翳る。
「そういう、気分にならないんだ……今は」
ともすれば、女性にとってこれほどの 屈辱的 な言葉があるだろうか。けれど、なつきは知っていた。
ここ、最近の彼のピアノの演奏がいつにも増して深く研ぎ澄まされ、ひどく繊細になっていることを――しかも、それが初めてではない。
時々、彼は過敏すぎるほど神経質になる。
気づいたのはずっと前だったけれど、それが周期的にかつ不定期にやってくることは最近になって気づいた。
巧妙に彼は隠していたのだろう、と思う。
だから、その周期の際はあまり彼女に近づかないのだろう、とも。
まっすぐに見下ろす彼を見上げて、逃げないように腕に力をこめる。
「そんなのダメだよ、隠し事なんて許さない……貴水くんが泣きたいなら泣いてもいい。わたしを傷つけたいなら傷つけてもいいから」
目を瞠る彼は、呻いた。
「君は……どうしてそうなんだろう? 僕は、そんなところを見せたくないんだ。君を傷つけたくない。だから――」
「ダメ!」
ガシッ、と瞼を閉ざす彼を引き寄せる。
「だって、わたしたち結婚したんでしょう? どんなあなたもわたしは受け入れるから……だから、貴水くんも隠さないで」
彼の肩にかかった白いシャツをなつきは指を滑らせて脱がし、そのままひどく爛〔ただ〕れた背中に両腕を廻す。
「何度も……わたし、そう、言ってるじゃない」
蛇がのたうつ痕のような両の肘をベッドについた貴水は、額がくっつくほどの間近で傷痕のない綺麗な長くほっそりとした指を彼女の唇に添えた。
「知らないよ、どうなっても」
告げて、彼は表情のわかりにくい醜悪な傷が巣食う顔を苦しげにひそめて、すでに彼女の答えを聞く 余裕 がないことを自嘲した。
*** ***
いつもとは違う 彼 を受け入れることは、苦痛ではなかった。時々、なつきは貴水が心配性すぎるのではないか、と思う。
これくらいで、自分は傷ついたりなんかしないし……好きな人のためなら、どこまでだって寛容になれるのだ。それは、彼が思うよりもずっと深くて強靭〔タフ〕な女性特有の感情なのだと、手を伸ばす。
「 君の、せいだ 」
貴水の頬は運動でかいた汗と、静かに零れる涙で濡れていた。
その雫を掬って、壊れそうな身体をどうにか保って微笑む。
「わたしの、せい?」
「強がっても、ダメだ。わかる……でも、どうにも……できない」
止められない、と激しくなる動きに本当になつきは苦しくなる。息をするのも絶え絶えになって、それでも愛しさに彼をギュッと抱きしめる。その耳元でうわ言のように懇願した。
「壊れ、ちゃいそう……いい、よ。壊して――」
目覚めた時、部屋の中はまだ暗かった。
貴水はなつきの腕の中にいて……下半身も、抜け出してはいたものの果てたままの状態であることがわかる。
穏やかな寝顔の彼の頭を抱きしめて、少し長めの黒髪を指でサラリと梳いた。
「――好き……大好きよ……」
裸の胸を彼の規則正しい寝息がくすぐって、なつきはホッと息をついた。
夜明けには、まだ少し時間がある。目を閉じて眠りについた彼女は、次に起きた時……たぶん、腕の中に彼はいないだろうと考えた。
きっと、彼は優しい音の少し悲しいピアノを弾いていて……あまり、多くを語ってはくれないような気がした。
でも――それで、いい。
fin.
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