Moonlight Piano #番外-lines


〜小夜原なつき視点「こっそり隠れてキスしよう」〜
■「春企画」作品として展示していました■
こちらの 「#番外-lines」 は、
「HPでセリフなお題」を使用した「Moonlight Piano」の
2007年「春企画」作品です。
貴水視点の「恋をしにきたんだ」のあと、五月くらいの話かと思われます。
最後の場面が「グッジョブ!」と 思わず 誰かの背中を叩きたく……
ならないですか?



 その日は、朝から騒々しくて 二人で ゆっくりするなんて無理だった。



〜 ピアノ・ソナタ 第15番ハ長調K.545 〜


「 ぱんっぱっかぱーん! 」

 玄関の扉を開けた 途端 のことだった。
 相変わらずのくりくりとした愛嬌のある表情、茶系の髪はさらに色が抜けて陽だまりのような輝きを持っている。肩につく程度に伸ばされた毛先は跳ねていて、彼女の元気のいいボールのような性格をよく現していた。
「新居へのお引っ越し、おめでとー! 小夜さん」
「……鈴柄さん」
 チューリップの鉢植えを翳されて、仕方なく受け取ると「葉山」なつきは呆れたように呟いた。
 訂正するべき要点が多すぎて、まず何から直すべきか分からない。
「とりあえず、お礼は言うべきよね? ありがとう」
「いえいえ」
 なつきの苦悩をまったく意に介さず、鈴柄愛〔すずつか あい〕はニコニコと応じた。
 なつきのいる玄関の向こうでは、まだ引っ越しセンターの青い制服を着た人たちが働いている。
「お。やってますな」
「そりゃそうよ、引っ越し当日の 朝 なんだから」
 ようやく、まず一点目の問題箇所に気づいてもらえたと、ホッとする。が、愛は不気味な含み笑いをして、なつきを見る。
「なによ?」
「ふふふ、大丈夫。このわたしが手ぶらで来ると思う? 小夜さん」
「ど、どういう意味?」
 なつきはイヤーな予感がして、極力扉の向こうを見ないように努力した。
「小夜さんも、貴水くんも引っ越しなんて 力仕事 不向きなんだから。その点、綾ちんならうってつけ。だって、商売道具は手じゃないから! 声だけだから!! ついでに、そこのマンションの前で会った日間くんも連れてきたし、お手伝いにはこと欠かなくってよ!」
 なつきの努力も虚しく、扉を大きく開け放った愛の横には、「カザバナ」こと風花音楽大学時代の友人である日間八尋〔ひま やひろ〕と、後輩の美月綾〔みつき あや〕が立っていた。
 八尋の方は笑っているが……綾の方はどう考えても無理矢理引っ張って来られたに違いない。憮然とした顔で愛を睨み、そしてなつきと目が合うと頭を下げた。
「すみません、先輩」
「なぁんで謝るかなー、手伝いに来たんだよ?」
 喜ばれこそすれ、迷惑になるはずがない! と彼女は強引な論理〔ロジック〕で対抗した。
「愛先輩、だからって連絡もせずに来るのはどうかと思います」
「綾ちん、かたーい」
 ブー、と唇を尖らせる愛はぴょこんと首を伸ばして、なつきの背中の向こうに 目的 の人間を発見したらしい。

「なつきさん」

 玄関に出たきり戻る気配のなかった彼女に、どうやら夫である貴水が不審に思って迎えに来たようだ。
 なつきの体が とある理由 で普段とは違うというのもあるだろう。
 やってきた彼は、素肌に醜悪な傷が残る世界的にも有名なピアニスト「千住貴水〔せんじゅ たかみ〕」こと葉山貴水だった。引っ越しという作業のため、ピアニストらしからぬTシャツにジーパンという格好でひどく爛れた腕を外に晒している。
 まだ、状況を把握しきれていないのか、怪訝な表情でなつきの傍まで来ると、目を見開いた。
「鈴柄さん?」
「キャー! 貴水くーん」
 なつきの横をすり抜けて、愛は彼に抱きついた。
「会いたかったー。日本にあんまりいないんだもん……パリの公演には 絶対 行くから 待ってて ね」
「……あ、りがとう」
 突然の愛の出現に驚きながらも貴水は彼女を引き剥がして、最後は社交辞令に微笑んだ。



 あからさまに不機嫌ななつきを、八尋と綾がフォローする。
「信じられない……妻の前で夫に抱きつくなんて……デリカシーがないのよ。だいたい、貴水くんも貴水くんよ」
「す、すみません。重ね重ね」
「あと、わたしは「葉山」になったんだから、「小夜さん」はやめてって言っておいて!」
「はい……すみません」
 強いなつきの命令に、綾はすっかり低頭して、八尋は面白がるように言った。
「付き合ってるカノジョの監督責任は、確かに美月にあるかもね」
「なっ! 付きあ? ちがいますよっ」
 真っ赤になって否定する綾に、八尋は「おやおや」と眉を上げる。
「なんだあ、まだまとまってないのか? 長すぎだろう?」
「だーかーらー、俺と愛先輩はただの先輩と後輩です! 変な言いがかりはやめてくださいよ、日間先輩」
 憮然と言い放って、綾はそれきり口を噤んだ。
「ふん、強情なヤツめ。まあ、それはそれとして……なつき姫」

 なつきは困ったように微笑んで、
「姫はやめてって言ってるでしょ。……みんなして、相変わらずなんだから」
 と、荷造りした箱の中から楽譜を取り出した。


*** ***


 リビングの中心に据えられたグランドピアノに歩み寄り……なつきはリビングの扉の向こうの喧騒を遠くに聞いた。扉が閉まってしまえば、防音の素晴らしく効いたこの部屋は静寂に包まれる。
「なつきさん」
 一瞬の喧騒と引き換えにやってきた彼は、うっすらと汗を掻いている。引っ越しという作業の中、重いものを持つだとか指に何らかのリスクを負うような仕事はできないが、それでもやることは山ほどあった。
 事前の連絡がなかったのはいただけないが……実際、愛の機転は二人にとって得難い助力となったのは 確か である。
 プロのピアニストである夫と身重の妻では、できることが限られてくる。
 特に、こういう場面では――。
「こんなところにいた。どこに行ったのかと思ったよ」
「だって……」
 なつきは、不満を顔に出して睨む。
「貴水くんが何もするな、って言うから。仕方ないじゃない」
「……なつきさん」
 困ったように貴水はなつきを見た。
「分かってるわよ、わたしだって。自分だけの体じゃないってことくらい」
 マタニティのワンピースを着た彼女のお腹は、まだあまり目立たないがぽっこりとふくらんでいる。新しい命を育んでいるのだから、行動を規制されるのは当たり前だ。
 それでも、何か手伝いたいのに……楽譜を取り出して棚に運ぼうとしただけで止められる。
 八尋も綾も、その点ではなつきに味方をしてくれない。箱からモノを出すくらいできるのに……手を出そうとすると叱られる。その繰り返しに、嫌気がさして離れたのだ。
 なつきがしたいことのほとんどは、愛に取られてしまう。
 力仕事は、綾と八尋が手伝っている――ピアノの黒い曲線のフォルムに触れて、息をつく。
 蓋は開いていて、鍵盤が表に出ていた。
「全然、落ち着けないし。動いていた方が楽なのに……アレするな、コレするなばっかり! こんなのって 拷問 よっ」
「僕も、可哀想だとは思うけど」
 仕方なしに相槌をうって、貴水は微笑んだ。
 確かに、なつきの性格上、ジッとしているよりは動いているほうが性に合っているのだろう。しかし――こればかりは、許容できない。
「 我慢して。 」
 ぐっ、となつきは唸った。
 貴水の有無を言わせない命令は、彼女にとって絶対の効力を発揮する。普段がやんわりとした物言いの彼だから、何も言えなくなる。
 もちろん、彼の方が正論だ。
 (分かってるわよ……)と悔し紛れに鍵盤を一つ、叩いた。

 ポーン、という音が部屋を満たして――二人で顔を見合わせた。

 ピアノの足に寄って膝をついたなつきの横に、貴水が立つ。
「やだ。やっぱり、引っ越しするとダメね。音が外れてるわ」
「うん、調律しとかないと」
 音を叩きながら、そんなことをつい真剣に相談してしまうと、互いにくすりと笑ってしまう。貴水が屈み覗きこむように顔を突き合わせていたから、すぐそばに目があった。
「なつきさん」
「うん?」
「あのさ」
「うん」
「今日はたぶん、ずっとこんなだと思う。午後からは叔父さんも来るし……二人きりになんて、なれないから」
 だから。


 こっそり隠れて キス しよう。


 ピアノに隠れるように、下に入って彼は言った。
 ほっそりとした彼の長い指がなつきの顎を軽く上向かせる。
「――うん」
 にっこり笑って目を閉じると、唇を寄せ合う。呼吸をする、そのふわりとした気配がやってきて……遠のく。
「葉山さーん、コレ、どこに置きましょう?」
 リビングの扉を容赦なく開け放った引っ越しセンターの青い制服を着た青年が顔を出すと、貴水は流れこんできた喧騒に諦めて立ち上がった。

「もうっ!」

 なつきは真っ赤になって、タイミングの悪い引っ越しセンターのスタッフにたまらず声を荒げた。


fin.

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