不動産屋のカウンターでいくつかの目ぼしい物件の書類を受け取った葉山なつきは、席を立つとぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました、またうかがいます」
「とんでもございません。よい返事をお待ちしております」
なつきを担当した営業は、にこにこと人のいい笑顔を向けて扉を開けると見送ってくれた。
ハー、と息を吐くと、白く外気に溶ける吐息。
プロのピアニストとして仕事の忙しい葉山貴水があまり日本にいないため、なつきは一人、二人で暮らす新居を探していた。
数日前、単発の客演で海外に飛ぶことになった彼に言われたことを思い出す。
『あんまり無理しちゃ、ダメだよ』
それは、ここ最近なつきの体調があまりよくないことを知っての発言だった。
(……ちょっと、頑張りすぎたかな)
と、商店街のざわめきに流されながら、後悔する。
軽い貧血だと思っていたが、なんだか体が重いしだるかった。
風邪でもひいただろうか。
ふっ、と鼻につく匂いにクラッと眩暈がした。
( 気持ち悪い )
と、口元をおさえてうずくまる。
もうすぐそこに、駅があるのに。
「大丈夫ですか?!」
遠のく意識の向こうで、可愛らしい女性の声を聞いたような気がしたが……確認する前に、なつきは意識を失った。
〜 花の歌 〜
次に意識を取り戻した時、目に映ったのは白い天井だった。
そして、清潔な部屋の白いベッドに横になって……ぼんやりとしていると、若いどこかで聞いたような声が「大丈夫ですか?」と訊ねてきた。
声のするほうに目を向けて、そこに座る儚げな可愛い感じの女性が立ち上がり、身を起こそうとしたなつきを制した。
「ああ、ダメ。貴女、倒れたんですよ? 覚えてますか?」
「……なんとなく」
そう答えて、なつきは(そうだ……)とはっきりとはしない記憶の中の最後に聞いた声と、彼女の声が同じことに気づく。
「すみません、見ず知らずの方にご迷惑をおかけして」
「気になさらないで、お互いさまなんですから」
「……ありがとうございます」
まるで、天使のような微笑みを浮かべて彼女はなつきに笑いかけ、「検査の結果が出るまで、ゆっくりしていてくださいね」と言った。
「検査?」
「教えるの遅くなりましたけど、ここ病院です。藤城総合病院……貴女を休ませようと思っただけだったんですけど、診ていただいたお義父さまが気になることがあるからって」
病院、と聞いてなつきは納得した。
ほのかに香る薬品の匂い。それに、見事に白にまとめられた部屋は、病室と明かされてしまえばそうとしか考えられない。
「お義父さま、産婦人科の先生なんですよ。お心当たりは?」
うふふ、と可愛らしく尋ねられてなつきは頬をサッと朱に染めた。
(心当たりなんて、ありすぎるくらいだけど――)
ずっと、まるで兆〔きざ〕しがなかったから(まさか)という気もする。
布団で隠れたお腹を、そっとさする。
そういえば、月のモノが今回に限って遅れている……思い至ると、なつきは現実味を帯びた事実に胸がトキトキと高鳴った。
(いるのだろうか……ここに、貴水くんとの赤ちゃんが?)
「あの――」
なつきが、よくよく訊こうと声を発するのと、病室の扉が叩かれるのとはほぼ同時だった。
「沙矢」
と、低音のテナーが言って傍らの女性が扉まで出迎えた。
「青」
姿を現したのは、悪魔的な美貌とでも言おうか。
精悍で端正な面立ちの男性で、白衣を着ているから病院〔ここ〕の先生だと知れた。
(大丈夫かしら?)
と、なつきはその悪い男特有の漂う色香に心配になる。儚げな女性はか弱そうに見えるが……騙されているのではないだろうか?
なんて、失礼かしら。
「心配性すぎるのよ、青は。運ばれたのは、わたしじゃないわ!」
「沙矢」と呼ばれた女性はくすくすと笑って、胸を張る。
「だったらいいが」
と、冷たい雰囲気の男の眼差しが優しく細められて、心底ホッとしたように息をついた。
「しかし。分かってないな……私がどれほど、君に惚れているのか…一一」
ニヤリ、と意地悪に言って、真っ赤になる彼女の髪を一房〔ひとふさ〕すくって口づける。
「おまえはよく、 落ちる から 心配 なんだ」
ただびとがすれば気障〔キザ〕にしか見えないその仕草も、彼がするとなんだか様になる。
「ちょっとやめてよ、青! 恥ずかしいじゃないっ」
一瞬、ぼぅっとしていた彼女だったが、なつきの視線を感じると男から飛び離れてかしこまる。
「すみません、お見苦しいところをお見せして……この人、わたしの夫の――」
「藤城青、ここで産婦人科医をしています」
そして、彼の妻は儚げな中にも芯の強そうな眼差しでなつきを見る。
「 申し遅れましたけど、わたしは 藤城沙矢 と申します 」
なつきが自己紹介を終えると、そばまでやってきた白衣の彼がふと訊いた。
「葉山さん、ピアノを弾いてらっしゃいますか?」
なつきは目を瞠って、「ええ」と頷く。
「分かりますか?」
「そうですね、確信ではありませんが……そう思わせるだけの手をしてらっしゃいます。ピアニストらしい、キレイな指ですね」
マジマジと自分の手を眺めて、なつきは首を傾げた。
それを言うなら、貴水の方が長くてしなやかな指をしている。
指先は少し低温で、肌に触れると気持ちよくて……ずっとそうしていて欲しいと願うほど、愛おしい。
「夫の方が、もっとキレイですけれど」
「……もしや、プロのピアニストですか?」
ヒョイ、と眉を上げて美貌の先生は訊く。
「ええ。「葉山」ではなく「千住」で活動してますけど」
と、なつきは自分が威張ることではないと思いながら、貴水がピアニストだと告げる時は何故か誇らしい気持ちになって胸を張ってしまうのだった。
*** ***
「おめでとうございます」と、藤城総合病院の院長でもある先生に伝えられた時、なつきは 驚き はなく確かな 喜び を感じた。
唇に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
(――さて、どうやってこのことを彼に伝えようか)
なつきの頭に浮かんだのは、そのこと だけ だった。
今は、海外遠征中の 夫 にただ伝えるだけでは勿体ない。どうせなら、とびきり甘い思い出にしたいじゃない?
ねえ、あなたもそう思うでしょ?
と。
なつきはそこにいる 我が子 に語りかけ、そっとお腹に手をあてた。
fin.
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