窓の外を、梅雨の長雨がまだ降っていた――。
「 このぐらいの年が一番かわいいころだね 」
と、水たまりで小さな合羽〔かっぱ〕を着て長靴を履いた甥がパシャパシャと遊んでいるのを眺めながら、傘を差した千住久一〔せんじゅ きゅういち〕は隣を歩く兄夫婦に言った。
「三歳、だっけ?」
「そう」
にっこりと笑う葉山治貴〔はやま はるたか〕は頷いた。
そんな彼らから水江〔みずえ〕は少し前に出て、幼い息子をたしなめる。
「たかみー、いいかげんにこっちにいらっしゃい。風邪ひくわよ!」
母親に呼ばれてふり返ると、あどけない顔が無邪気に笑った。
「はーい」
駆けてくると、母親の手を握って見上げた。
パタパタ、と鳴る水江の差す傘に耳をすませて、貴水は楽しそうに足踏みする。
「あ。こら!」
と、泥がはねて母親に嫌な顔をされた。
「まあまあ、水江」
笑って父親が仲介に入ると、怒られていた息子が顔を上げた。
「貴水は、雨の音が好きか?」
「うん」
こくん、と頷く。
治貴は身を屈めて貴水の頭を撫でて、傘を仰いだ。
「いいかい? コレはね、雨の音楽会なんだ」
「おんがくかい?」
不思議そうに口にして、幼い貴水は首をかしげた。
「そう。だから、静かに聴かなくちゃ もったいない だろう?」
「……うん。ぼく、しずかにきくよ」
父親の言葉に素直に頷いて、貴水は傘を見上げた。
〜 水の戯れ 〜
(うまいもんだな……)
と、久一は思って、彼らに倣って耳をすませてみた。
時折、リズムを変えて落ちてくるそれは、確かに音楽のようにも聴こえる。
貴水はもともと耳のいい子どもだったから、いい口上だったのだろうが――。
*** ***
くくく、と葉山宅のリビングでソファに座る久一は笑って、対峙する葉山なつき(旧姓、小夜原)に思い出したとばかりに目を向けた。
「水江さんは、そのあとカンカンだったけどね」
「え? どうしてですか?」
「貴水がなかなか家に入らなかったから。玄関先でずーっと聴いてるんだ……バカだろう?」
なつきは「はあ」と相槌をうって、困ったように微笑んだ。
「 貴水くんらしいですけど 」
そうだろうそうだろう、と久一はニヤニヤと相好を崩した。
「小さい頃はそれでもかわいかったものだが……今は――」
言ってるそばから電話が鳴って、なつきが出ようとするのを遮って立ち、受話器を取る。
「はい、千住ですが」
『……叔父さん?』
聞こえてきたのは今は海外ツアー中の甥、葉山貴水の声だった。
顔から全身に醜悪な傷に巣食われた特異な容姿と、類稀な才能を持つピアニスト――千住貴水として世界中を飛び回っている彼は、日本に居ることのほうが少ない。
「なつきさんじゃなくて悪かったな。昔はかわいかったが、今はふてぶてしいヤツだよ、おまえは」
あからさまに迷惑そうな声だったので、厭味っぽく言ってみる。
もちろん、本気ではないが……電話の向こう側はしばしの沈黙が流れた。
『どうでもいいけど、なんで そこ にいるの?』
そして、次に聞こえたのはさらに投げやりな甥の言葉。
(どうでもいい、だって? 育て甲斐のないヤツめ……)
「いちゃあ悪いか? おまえの 新居 だ、叔父としては見ておかねばなるまい」
『いや。引っ越しの時に来てるだろ? それなら』
と、困惑しきりな彼に久一はにんまりと笑って、
「そりゃあ、もちろん 身重の なつきさんのためだ。遠くの夫より近くの親戚……国際電話するくらいなら、早く戻ってきてやるんだな」
「 叔父さま! 」
慌てて、なつきが受話器を久一から奪って、貴水に謝っている。
「大丈夫だから……うんうん、順調だってば、気にしないで」
と、静かに伝えるなつきの声に、久一は肩をすくめて無理だろうなと思う。
貴水の性格からして、気にしないワケはない。
だからこそ、毎日のように高い金を払って国際電話をかけてくるのだろうし、信頼のできる病院の近くに引っ越したりもするのだ。
(心配性というか、なんというか)
自分が煽っておきながら、久一は他人事のように二人のやりとりを眺めた。
そして。
視線を外すと、ソファに座っていまだ降り続く窓の外の雨を遠く見上げた。
あつく暗かった雲の向こうが幾分明るい……晴れ間も近いか、と暢気〔のんき〕にそんなことを考えた。
fin.
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