事件の第一報を受けたのは、事務所の社長職に就いたばかりの頃……多忙な職務の最中だった。
これは、言い訳になるかもしれないが、その電話に出るまで気づかなかった。
いや。
兄がナーバスになっていたのは感じていた。
けれど、兄の葉山治貴〔はやま はるたか〕は繊細なピアニストで躁鬱という精神状態を一定周期で繰り返すのが常だった。
(また、いつもの病気だろう)
と、軽く見過ごしていたのが……たぶん、私の罪だろう。
そして、その一番の被害者となった貴水に事件後会った時のことを今でも、「罪悪感」として刻みつけられている――。
〜 幻想即興曲 〜
千住久一が病院に着いた時、幼い甥は集中治療室で酸素吸入器をつけられ、顔のすべてと全身に痛々しい包帯を巻かれていた。
貴水は、皮膚全層におよぶ第V〜U度の火傷が頭部の一部・左上腕に左胸部、左背面を中心におおよそ全皮膚面積の30%に達するとても危険な状態だった。
緊急手術がほどこされ、あとは当人の治癒能力に委ねられた。そうして、彼は生き残り……さらなる悪夢を経験する。
もともとが兄譲りの綺麗な顔立ちをしていた少年は、そのひどく爛〔ただ〕れた傷痕に心を閉ざすようになる。
もちろん、傷痕だけが理由ではなかった。母親である水江に強く突き放されたことが、彼の精神に大きな影響を与えたのは言うまでもない。
あの頃の、水江は事件のショックで普通の精神状態ではなかった。
人懐っこく明るかった貴水が、暗く笑わなくなったのは彼の非でも、水江の非でもない。
自分勝手に死んだ治貴、そして忙しさにかまけて兄のシグナルを軽んじた自分のせいにほかならない。
(兄の性格をよく知っている。繊細で、優しく……身勝手なほどに脆〔もろ〕い)
それが、ピアニスト・葉山治貴の美しい演奏に重なって残酷に耳に響いた。
それから、数ヶ月久一は貴水の見舞いに通ったが、心を閉ざした貴水は一言も口をきかなかった。
澄んだ目も空ろなまま、見えているだろう景色さえ閉ざされた心には届いていない。
どうしたものか、と思案に暮れ……ふと、耳に残る残酷な音色にある言葉を思い出す。
『音楽は人の精神を安定させる魔法みたいなものだ』
それは、今は亡き兄の言葉――。
鬱期の歪んだ微笑みは、音楽に触れた時にだけ優しい表情へと変わった。
たとえ、それが自身を苛ませている張本人だとしても……接している間は、夢中になっている。
狂気じみた集中力が、襲いくる不安から彼を救いだした。
病室のベッドでぼんやりと窓の外を眺めている貴水へヘッドフォンをかけ、無理矢理に聴かせた。
小学校低学年の甥には難しすぎる選曲にしたのは、容易に攻略できる曲目ではダメだと判断したからだ。耳のいい貴水は火事の後遺症もなく、どうやら兄と同じ資質をもっているらしい。
何も映していない眼差しは、虚空を眺め指だけが勝手に備え付けのテーブルを叩いた。
タタン、タンタタタタタン。
「――おじさん」
数週間後。
テープが擦り切れるほどに聴いた貴水は、ポツリと久一を呼んだ。
そして、事件後はじめて彼の顔をその闇の瞳に映した。
「ぼく、ピアノがひきたい」
と。
一時退院の許可を得て、家に連れ帰りピアノの前にやってくると貴水はようやく自分の意思で歩いて、椅子に座った。
――その時の、ピアノの音を何と表現したらいいだろう。
耳だけで覚えた難曲を完璧に弾きこなし、しかもそこには深いふかい悲しみがあった。
聴く者すべてを落ちこむような、底なしのレクイエム。
ピアノが泣いている……知らない間に頬に涙が流れて久一は苦笑した。
( まさか、私が泣かされるとは思わなかった )
どれほどの時間、そうしていたのか。
正直なところ、よく覚えていない。
ただ、昼過ぎの午後の日差しが入る部屋がいつの間にか夜の闇に閉ざされていたことは覚えている。
――――――…。
止んだピアノの音に、我に返って久一はグラリと傾く小さな体に慌てて手を差し伸べた。
「……まったく」
くぅ、と演奏とは似つかない(包帯でほとんどの表情は隠れているが……)あどけない子どもの寝顔に、呆れる。
(こんなところまで、兄さんに似てるとは)
次の日、目が覚めた貴水に朝ごはんを与え、ついでに事務所への所属を提案してみた。
「 やだ 」
やはり表情は乏しいものの、幾分以前の貴水に近づいた彼は即答した。
「どうして、おまえほどの腕なら……」
なんとなく、理由は分かっているが……あえて、それには触れなかった。
包帯の狭間から覗く、深い闇の瞳は澄んで首をふる。
「ぼくは、ピアニストにはならないよ――おじさん」
キッパリ、と言い捨てて、以降貴水は久一の前で決して ピアノ は弾かなかった。
本気のピアノは……。
ただ、時折聞こえてくる壁の向こうからの旋律……儚く強い、美しいピアノの歌声に「ああ、まだ弾いているのだな」と安心する。
やがて、やってくるだろう。
頑なな 彼 の劇的な変化を期待して。
*** ***
皮肉なものだなあ、と久一はぼんやりと考えた。
「 叔父さん? 」
と、自分を呼ぶ甥の声に「ああ」とここがどこかを思い出す。
世界的なピアニストとして世界中を飛び回るようになった千住貴水……本名は、葉山貴水だが定着した旧姓を今でもピアノ活動に使用している……は、ほとんど日本に戻らない。特に――。
「叔父さま、大丈夫ですか? お仕事、忙しいんでしょう?」
この、白いウェディング・ドレス姿の小夜原なつき……今日からようやく、葉山なつきとなった……とピアノ公演活動を共にするようになってからは、特にひどい。
心配そうに仰ぐベールの下の美貌に久一は、ワザとらしく大仰に嘆いてみせた。
「ああ、忙しい忙しい。薄情な甥はなつきさんが傍にいるとなると、ほとんど戻って来ないしなあ」
「……じゃあ、今日は不参加でもよかったんだよ?」
至極、真面目に顔をしかめて貴水は言った。
なかなか日本に滞在できない二人は、時間の余裕ができた年明け早々に入籍し、今は簡単なガーデン・ウェディングを催して内輪だけのパーティを開いていた。
内輪だけ、とのことだったのでそんなに人が来ないのかと思っていたら……大学時代の友人や先生がどこから聞きつけたのか、あるいは無理矢理聞き出したのか集まっていた。
友人の少ない新郎よりは、大体は新婦の友人のようだったが。
毛色の違う友人も現れたりして、心底嫌そうなめずらしい貴水の表情〔かお〕を拝むこともできた。
( アレは、面白かったなあ。――来てよかった )
と、久一はくっくっくっと笑いをふくんで、まったく違うことを言う。
「いやいや、おまえの 不似合いな 晴れ姿はどうでもいいが――なつきさんのこの姿は見逃せないだろう?」
もちろん、コレも 嘘 ではない。
白いスーツの新郎の隣に並ぶ、真っ白なウェディング・ドレス姿のなつきは長い黒髪に白い肌の美しい女性だ。もともと、類稀な美貌を持った彼女だが、やはり花嫁はその纏〔まと〕う空気が違う。
頬を染め、幸せに寄り添う姿は目が眩むほどだった。
いまだ幼い頃の事件の痕が身体の広範囲を巣食っていながら、傷を晒した彼があまり その 悲愴さを感じさせないのは彼女の存在が大きいだろう。
なつきの腰に、そっと手を添える貴水の自然な姿に目をとめて、訊いてみた。
「 ところで、子どもの予定はあるのか? 」
明らかに、貴水は迷惑そうな表情をした。
ふん、と鼻を鳴らして、(コイツからの返事は期待してないんだよな、最初から)と隣のなつきに目を向ける。
彼女は首をかしげて、
「結構、貴水くんと頑張ってるんですけど……出来なくて」
相変わらずの、隠し事のない 直球 に笑いがこみあげる。
「はっはぁ! それはそれは――じきにいい報告がありそうで何よりだな。おい」
甥をからかいがてら肘で突付いてやると、「まあね」とだけ静かに返ってきた。
(ちっ、からかい甲斐のないヤツめ)
「しかしなあ、おまえも 父親 か。早いものだなあ……なあ、貴水?」
『――音楽は人の精神を安定させる魔法みたいなものだ』
口ずさむと、甥は不思議そうに訊いてきた。
「なに、ソレ?」
「ああ、おまえの父親の言葉だよ……」
貴水は何か言いたげに久一を見たが、結局何も口にしなかった。
「この言葉があったから、私は おまえに ピアノを弾かせたのかもしれない」
「 皮肉だね 」
貴水の言葉に「そうだなあ」と相槌をうって、花嫁が否定した。
「きっと、助けたかったから」
だから、皮肉じゃなくて必然だとなつきは微笑んだ。
「お父さまも叔父さまも――貴水くんを助けたかったんですよ」
そうかもしれない。
と、久一は冬の高いたかい空を見上げて、こみ上げる熱いものにゆっくりと目を閉じた。
fin.
|