俺に負けを認めさせたのは、全身を包帯で覆った幽霊のような男だった。
「負けた方は、彼女から手を引くこと」
俺の出した提案に、その男は応じて……そして、アッサリと俺に負けを認めさせた。
それほどに、あの男の演奏は素晴らしかった。
(でなければ、俺が ピアノ を諦めるワケがないだろう?)
と、医者になった今でも思う。
あの演奏を聴かなければ、俺はまだピアノを弾いていた。断言してもいい。
それくらいには、俺にも 自信 があったんだ。
彼女を手に入れるつもりだった――なのに、負けを認めてしまえば 条件 を違えることはできなかった。
二度と彼女には、会えないと思った。
〜 黒鍵 〜
高校のピアノコンクールで常に上位に入賞する顔ぶれの中に、美しい少女がいた。
小夜原なつき……という名前の彼女は、長い黒髪に意思の強い輝きを持つ瞳の目立つ存在だった。ピアノの腕も素晴らしく、誰もが彼女の将来を有望視した。
華やかな存在感と、豊かな才能。
きっと、世界的なピアニストに成長するだろう。
しかし、そんな彼女のそばにはいつも、ヤツがいた。
千住貴水という、その化け物じみた外見の彼は彼女とともにコンクールに出場するものの、成績はふるわない凡才。特異な姿のわりには、存在感がなくて彼女と一緒にいるから目に付くという感じの奇妙な男だった。
「なんで、あんな男が……」
と、彼女を見ていたら飛びこんでくるやや私怨の入った、一般的な評価に俺も同調していた。
だからこそ、賭けに出たのだ。
「アレは、わざとだったのか。それとも、たまたま?」
結局、あの時のヤツはめずらしく賞をもらっていたけれど……それ以降は、また凡才に徹したらしい。
今は、世界的に有名な ピアニスト だけどね。
でなければ、俺が身を引いた甲斐がない。
妙な縁があるのか、最近彼とまた顔を会わせる機会があった。病院の廊下だ。
学生時代、包帯で隠していた傷を晒した姿は……比べようもないほどの圧倒的な存在感。
確かに、傷のせいもあるのだろうが……そんなことは、気にもならないほどに彼は成長していた。
「奇遇だね」
声をかけると、あんまり変わっていなかった。
素っ気ないったら、ありゃしない。まあ、いいけど。
それから、しばらくして待合室に彼女がいるのを発見した。
相変わらずの、美しさに思わず声をかける。
「え?」
戸惑う仕草も、魅力的だ。
「……襲っていい?」
いけない、口に出たか?
警戒する眼差しに、俺は笑って誤魔化そうと昔のことをペラペラとまくしたてた。
すると。
俺の背中越しに誰かを見つけたのか、彼女の表情が変わる。息をのむ、これは恋の魔法だろうか?
輝きが、まるで違うじゃないか。
「すみません、彼が戻ってきたので……貴水くん」
ああ、やっぱりか? と思う。
寄り添う二人を見つけて、見せつけられる。
(おいおい、そんだけ想われてて妬くのか? 俺相手に?)
……悪くない。
世界的なピアニストに、嫉妬されるなんてそうはないだろう?
「せんせい、どうしたの? くちぶえなんかふいたら、ぎょうぎわるいよ?」
いいじゃないか、今日の俺はそれくらいには甘やかされていい 不幸な境遇 なんだ。
fin.
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