どん、と。
廊下で走ってきた人にぶつかった小学三年の仁道小槙〔にどう こまき〕は尻餅をついて、「あいたぁ」と腰を撫でた。
標準よりも小さな体に、おかっぱ頭。
手に持っていたノートや教科書は死守したが、目にかけていた眼鏡はずれてしまった。ぼやけてしまった視界に人影が近づく。
「うわっ、ごめん! 大丈夫やった?」
引き返してきたらしい男の子の声はそう言って、小槙のずれてしまった眼鏡に手をのばして定位置に戻してくれた。
「へ、平気です」
(わたしがトロいだけやのに……)
と、真っ赤になる。
「ホンマに? ウソやない?」
「ホンマに。ウソやない」
ピントが合ってしっかりと目に映った男の子の顔は整っていて、思わずジッと眺めてしまった。
明るい黒髪に陽に健康的に焼けた肌、あどけない表情の中に切れ長の瞳が大人びて見える。
名札には「三‐三 あまぎてるあき」と書かれていて、隣のクラスの男の子だと分かった。
「よかった」
こぼれて落ちた笑顔が眩しくて、小槙は俯いて「ありがとう」と差し出された手に手を重ねる。
助け起こされる感覚は、まるで自分がお姫さまか何かになったような気分だった。
(男の子って、もっとガサツやと思ってた……こんな子もおるんやなあ)
優しくて、王子さまみたいな男の子。
「あっくん! なにやっとんねん。休み時間なくなってまうやん」
「わーかってる!」
こういうトコロは「男の子」って感じに声を荒げて、拳を振り上げ彼は友だちに返事を返した。
「じゃあ、ホンマにごめんな」
そう、もう一度小槙に謝ってから校庭へと走っていく背中は、小さいけれど足が長くて とても 速かった。
両親が離婚して、彼が「天城輝晃」から「馳輝晃」に変わったのは四年生の頃。
小槙が輝晃と同じクラスになったのは、五年生になってからだった――。
〜 むすんでひらいて1 〜
朝、目覚めてそこが大阪にある実家の自分の部屋だと思い至るのに、少しの時間を要した。
もうすっかり季節はあったかくなったのに、今朝はなんだか冷えるような気がして小槙は背中を丸めて、ギュッと自らを抱きしめてみる。
「輝くん……」
結納までの間、実家に戻ることになったのは数日前、小槙の兄である旭が上京してきた時のことだった。
妹の身を心配した旭が、輝晃に ある 条件を示してそれを彼が承諾したため……小槙は大阪に帰ってきたのだ。それまで、ずっと一緒に眠っていたから、当たり前になっていたから、目が覚めてそばにいなかったらどうしたらいいのか分からない。
目覚め方を忘れてしまったみたい、と息をつく。
一緒に眠っていた頃は感じていなかったけれど、旭が上京してくる少し前から輝晃との間で断っていたことが、今になって急に小槙の体を侵食しおかしくさせた。
「ど、うしたらええ?」
熱の治め方など知らない。いつも、そんな必要がないほどに優しく包まれていたんだと思うと涙があふれた。
抱いて、と呟いても、そばに彼はいない。
だから、想像するしかなくて……よけいに寂しさが募る。
「輝くん、輝くん……」
熱にうかされたように口にして、体を抱きしめ、小槙は一時の夢に酔う。
抱きしめて、キスして、触って――「好き」って言って。
自分の想像にあとになって小槙は恥ずかしくなって、人には言えないと布団をかぶる。一回ならまだよかったけれど、繰り返しくりかえし時々過激になっていく想像についには軽い自己嫌悪に陥った。
(……わたしって、やらしい?)
こんなことで輝晃と次に会った時、普通でいられるのかと不安になった。
(欲情……せぇへんよね)
と、小槙は真剣に悩んでいた。
小槙の悩みとは別に結納の日は着実に近づいて、あっという間に一週間後に迫ってくると動揺する。
『小槙?』
輝晃から、定時に入る携帯への連絡にも上の空で小槙は謝った。
「ごめん、聞いてへんかった」
『ええけど。なんかあった? 最近、特にぼーっとしてるやろ?』
ドキッとしながら、小槙は平静を装った。
まさか、欲情しそうなところを我慢している……とは言えない。絶対、言えない。
「う。ううん、べつに。輝くんは無茶してへん? 無理してオフ取ったらあかんよ」
『平気やって。オフの件は、去年からずっと言ってる話やし……野田さんかて社長かて許してくれてるんや。予定通りそっち行くから』
「……うん。待ってる」
思わず震えそうになる声をおさえて、小槙は通話を切った。
( もうすぐ、会えるんや )
そう思うと、嬉しいような怖いような、逃げ出したいようなひどく 待ち遠しい 気分だった。
どんなに不安でも、悩んでいても、結局は欲情してもいいから 彼に 会いたかった。
会って、それからどうなるかなんて……知らない。兄との交換条件のことを含めて、今は考えたくなかった。
>>>つづきます。
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