1-1.後宮相関図


 環妃 茗〔カンヒ メイ〕は世旻帝の正統な正室であった。しかも、皇太子である荊和〔ケイカ〕の母でもある。
 にも関わらず、彼女は不安だった。
 何が? と問われれば、その「衰え」だ。

「まだ荊和を陥れそうな人間はいるのですか……なんてこと!」
 彼女は憤激し、また恐慌した。
 しかし、表情は微々とも崩れず、感情を感じさせない強固なプライドが仮面をつける。
 そんな可愛くない自分を知っているから、環妃はさらにおびえる。
(衰えないものはない。「権力」にしろ「美貌」にしろ……良い時期は、すぎるもの……)
 環妃は確かに信頼している皇帝、肖 世旻の心さえも疑った。

「……いつもお美しい皇后陛下。しかし、そう……存在するのですよ、確かに」
 泰然と座る彼女の、年齢を感じさせない張りのある白い手の甲にうやうやしく接吻〔キス〕をした優美な美男子は宦官〔かんがん〕だった。
 名は耿 藍庸〔テキ ランヨウ〕という。
 細い髪質は彼の綺麗すぎる肌に婀娜〔あだ〕っぽく落ちる。その眼差しは女のようにつややかだったが、時折ふいに刃のように鋭くなった。
 外見的には取り繕っている環妃だったが、その宦官の接吻をふりはらうほどの余裕がなかった。
 心は確かに動揺しているのだ。
「 そう 」
「第六妃 秋 西蓉〔シュウ セイヨウ〕とその皇女 奏姫〔ソウキ〕」

 ぴくり、とかすかに環妃は身体を緊張させた。
「おまえは私を鬼にさせたいようね、藍庸。
 最初は荊和の政敵となる世旻様の義弟家系、それに反皇太子派だった左宰相〔さざいしょう〕に、ちょっぴり機知のある可愛い皇子〔おうじ〕だったわ」
 列挙する皇后に懐かしむような微笑みがあがる。
「次は皇子を生みそうな若い妃……みんな、少し脅すだけで出ていったわね」
 こちらは不満げに唇を歪めた。
 裾元に跪く綺麗な男に、環妃は澄んだ黒の瞳を交えた。
「その次がなんですって?」
「秋妃は頭のいい女性です。しかもかなりの権力憧憬の持ち主で、奏姫を使って荊和政権を揺るがす存在になるのは必定かと……」
「………」
 ゆったりとした椅子に肘をまかせ、環妃は表情をぴくりとも動かさなかった。
「いかがなさいます?」

「奏姫は確か、まだ六つだったわね」
「仰せの通りにございます」

「 可哀想に 」

 妄執にとらわれた皇后が瞼を深く閉ざした。
 それが、非情な彼女の合図。
「せめて、苦しまずに殺してあげて」
「仰せのままに。慈悲深くお美しい皇后陛下」
 環妃は頬を痙攣させるように笑った。その肌には年齢相応の衰えなどなく、むしろきめ細かな若々しささえあるというのに、彼女には心に入りこんだ不安から逃げる術〔すべ〕が分からない。

(「空言」と分かっていながら、「美しい」と言われると嬉しいなんて)
 環妃の手の中で、パチンと扇が音をたてる。彼女の口元を隠していた白い羽毛の扇が閉じられた音だ。

(そう……良い時期はすぎるもの。
 それは、あっという間に――!)


*** ***


 さて、春陽は後宮での女官を命じられた。
 世旻帝曰く。
『妃となった時、いち早く雰囲気に馴染むため』
 であるらしい。
 いまだ半信半疑であった春陽は、動揺を押し隠して皇帝に進言した。


「恐れながら、陛下。それでは、貴方の身に危険が起こった場合、迅速に対応する護衛が不足してしまいます。ただでさえ、公費削減で人員が十分でないというのに……」
「むむ。耳の痛いことを言うでない」
「しかしですね…」
 さらに、ブツブツと小言をつなげそうな女官に世旻帝は手をあげてさえぎった。
「余のことを心配する必要は、もはやない。なぜなら、お前は息子の花嫁候補ではないか?」
「 ……… 」
 じっとりと執念を感じて、春陽は皇帝を仰いだ。

「まさか、アレが本気だったのですか?」
「余の言葉に二言はない」
 こっくりと何とも無邪気に告げる還暦男……もとい皇帝陛下。
(いつもは二言、三言当たり前のくせに)
 と、思わなくもない。
 春陽は逡巡〔しゅんじゅん〕し、仕方なく頷いた。

「陛下の命令とあらば勉強させていただきます」


 そんな経過で、現在彼女は後宮の渡りにいる。
 手には暖房器具である火鉢。その中では炭がパチパチと赤い熱をはらんでいる。
 ここは世旻帝の周りで働くのとは、微妙なところでかなりちがっていた。
 まず、これは護衛が目的ではない。
 それに、相手は生まれも育ちも生粋のお嬢様。
 子供もいる。
 世旻帝の言った通り、確かに馴染むのに多少の時間がかかりそうな場所だ。
 そう感じたのも、春陽が担当することになったお妃様というのが、結構な高飛車だったからかもしれない。
 秋妃 西蓉とその皇女 奏姫である。
 彼女は一目見て、春陽が平民上がりだと感づき気分を害したようだった。

『世旻様も気がきかないわ。こんな痴れ者をわたしの女官に勧めるなんて……ちょっと、おまえ。わたしに恥をかかせたら承知しないから……解〔わ〕かった?』
 ため息がついて出た。彼女が火鉢を運んでいるのも、その秋妃が「寒い!」と言ったからだ。
 今日はまだ小春日和だというのに。
(まあ、奏姫様はまだ可愛げがあるけどなあ……)
 母親の膝元にちょこんと座り、「かあさまのオシオキはおしりペンペンのけいー」と笑っていた小さな少女を思い浮かべた。
 しかし、その手にはしっかりと竹刀が握られていたことも記憶している。……しかも、その竹刀はかなり使い古され先が割れているのだった。
( 末恐ろしい…… )

 苦笑しかけ、スイと春陽は目を細めた。
 ヒヤリ、と後宮の空気が乱れる。それも、突然にだ。
 瞬間に、春陽は動いた。
 あまりに鋭い動きだったから、見る者が見たなら彼女が消えたように感じたかもしれない。
 それを隠すように後宮の中庭は、冬のおだやかな日差しを受けた木々たちがうらうららかに緑色をてりかえしていた。



 投げつけられた火鉢から、焼けた炭と灰が舞った。

「 む! 」

 男は血にぬれた剣を翻すと、乱入してきた女官と目を合わす。
 部屋は一面、赤い血の海だ。長い髪の女は、標本に張られた黒蝶のように壁にもたれ、昏〔くら〕い目で虚空を仰いでいる。
 その仕業がよほど乱暴だったのだろう、黒蝶はことのほか官能的だった。
 春陽は、彼女をよく知っていた。
 灰を吸い込まぬように鼻と口を袖で守って、叫ぶ。
「 秋妃〔シュウ ヒ〕様! 」
(なんて醜態だろう!)
 彼女は思わず自分を疑った。まるで後宮というおだやかな空気に毒されたようだ。
 しかし、それはまちがった判断だった。ここにこそ、鬼が生まれやすいにちがいない。
「奏姫〔ソウキ〕様から離れなさい!」
 母の死に様を目撃した可哀想な奏姫はおびえきり、泣くことも忘れたようだった。
 ガタガタと大きく震え、部屋の角に縮こまっている。
 男は一度、微笑んだように見えた。

 ガチ

「――ッ!」
 男は春陽の俊敏さに驚いて目を見開いた。
 振りかざされた男の剣を、火箸二本でささえて受け流す。
 また、春陽もちがう意味で彼に驚いていた。

「 ……あなたは分かっているの? 」

 男は仕事を邪魔されたのに顔をしかめて、春陽をにらむ。
 スッと身を引くと、別の戸口から走り去った。
 瞬間、にわかに室内の方へと人が集まりだす。
 おそらくは、先ほどの春陽の声で宮内の異変に気づいた衛兵たちである。
「ご無事ですか!」
「秋妃殿! ……なんという……」
 彼らは飛びこんでくると、第六妃の無惨な姿に言葉をなくし、次に諦念のような眼差しをそそいだ。
 そして、一人の衛兵が呟くのを春陽は聞き逃さなかった。
「いや、奏姫殿がご無事なだけ幸運というものだろう。なにしろ、仕事をしたのはあの……」

「 「ハルヒ」? 」
 その春陽の合の手に、ギョッと衛兵が身体を硬直させた。
「それが彼の名前なんですか?」
「まさか、ヤツを見たのか?」
 衛兵は少なからず驚いたようだった。春陽のような女官が刺客を目撃し、あまつさえ殺されずにいるというのは信じがたい。

「……ええ、まあ。でも、ひどい醜態だわ」
 頷き。
 首を不審に傾げている衛兵を忘れて春陽は眉をひそめた。
 秋妃の亡骸〔なきがら〕が外へと運び出されようとしているのを眺めながら、後悔する。
(あと少し駆けつけるのが早ければ……彼を止めることができたかもしれないのに)
 そうすれば、秋妃も。泣いているこの奏姫も。
 そして、「彼」も。
 傷つかずにすんだにちがいない。
「……なんか、落ちこんできた」
 言うやいなや、春陽は身を折ると奏姫に寄りそって顔をふせる。
「………」
 ガタガタと震えていた奏姫は少し落ちついて、女官の服にしがみつく。
 それが分かって、春陽はほんの少し救われた。



序.それぞれの世界へ。 <・・・ 1-1 ・・・> 二.刺客と護衛と花嫁候補へ。

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