1-序.それぞれの世界


 罪悪感……という高尚な動揺は、子供すぎた自分には湧かなかった。
 あったのは。

 意識を失うほどの空腹と感情の高揚。

 男は最初、ハアハアと大きく息を乱している小さな子供にむかって目を見開いていた。
 そして、疑るように自分の胸をさぐる。その……手についたヌルヌルとした赤い液体を血だと理解できたのかは、今でも謎だ。
 身なりは孤児の俺と似たり寄ったりといった見すぼらしい男だった。
 おそらく、境遇もそうかわりばえはしないだろう。
 動かなくなった男の手から粥〔かゆ〕の入った小さな椀をとると、すする。

 そうしなければ、その日のうちに俺は餓死〔がし〕していたにちがいない。
 ……だから、非はむこうにある。
 今でも、自分が悪かったとは思わない。
 そんな子供を当て馬に選んだ「相手」が悪いのだ。
 粥にまじった鉄臭い血の味を思い出しながら、闇で笑った。
 ……いや、ここは清薇〔セイラ〕の街の酒場だ。

 きらびやかな照明に商売女の嬌声、浮かれた男の歌声が流れている。
 しかし、一人で酒をあおっていた青年には、それとて心の内に入りこまない。
 年齢にして十八。
 身長は人並み超で、目や髪は一般的な黒い色をしている。肌は浅黒く、精悍な面構えでそれなりに女性が好みそうなタイプではある。
 ただ、どうにも陰気な壁がある。
 グラスに入っている液体は度数の強すぎる酒だったが、彼にはそれがちょうどよいらしい。
 すでに四杯目をあおっていた。
 ふと、彼は席を立つと勘定を済ませた。

 闇……そこに住むことを青年は良しとするようになった。
 つまり、「人を殺すこと」を生業とするように……。
 彼が初めて人を殺してから、そろそろ十二年の年月が過ぎようとしている。
 少年を「刺客」に変えるには十分すぎる……それは時間だった。


*** ***


 春陽〔シュンヨウ〕が世旻帝〔セイミンテイ〕に「うちの息子の妃にならないか?」と誘われたのは、ちょうど午睡の誘惑と戦っている最中だった。

「はあ? 恐れながら、陛下。もう一度おっしゃっていただけますか? 最近、耳の調子が悪いみたいです」
 気の抜けた相槌〔あいづち〕とともに、とりなすように笑う。
 この時、春陽はまた何かの冗談か空耳だとタカをくくっていた。
「良いとも。余の息子、荊和〔ケイカ〕と夫婦になってほしいのだ」
「 ……… 」

 どうやら耳の機能障害ではないらしい。
 しかし、これは深刻な世旻帝の脳障害だ。
 と、春陽は絶句しつつ不敬罪も甚だしい感想を至極真面目に抱いた。
 が、それも仕方のないことだろう。
「あの、陛下。私はただの女官なのですが」
「何を今更、知っているとも。勿論、腕前は一級品だ」
「は、有り難うございます。では、もう一度……先程の話は冗談なのですね?」
「 いや、本気だとも 」
「! へいか!」
 あまりにのほほんと繰り返す世旻帝に、ついに春陽は絶叫した。
 そんな彼女を微笑ましく世旻帝は眺めて言う。

「まあ、今はいきなりのことで実感もなかろう。答えをすぐにとは言わん。ただそのように心積もりをしてほしいのだ」
「〜〜〜〜〜〜」
 春陽は眠気も忘れて困窮した。
(私が皇太子の妃? ですって? ははっ、まさか……)
 笑いたいのに、笑えないのはあまりに目の前の世旻帝が真剣だったからだ。
 皇帝に仕えて一年以上になるが、このように懇願してきたのは初めてだった。今までであったら、主従の関係を盾に力ずくで推し進めてくるのが常道だというのに……。
「はあ、それでは一応考えておきます……」
(えらい新手を使いだしたな)
 渋々と春陽は平伏〔ひれふ〕した。
「おお! そうか」
 にぱり、と破顔一笑する世旻帝に、護衛女官である春陽はまだ半分信じきれていなかった。



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