1‐7.紅蓮


 まるで涙の粒。

 草花についた朝露は、日の光を浴びてひとときの儚〔はかな〕い輝きを大地に咲かせていた。それとも、これは……本当に誰かの涙なのだろうか。
「………」
 朝の宮廷の中庭に、玉は佇んでいた。
 彼女を探していたらしい侍女が、駆け寄ってくる。


「姫! 探しました」
 ひんやりとした空気の中、氷のような冷たい面の玉を見て、侍女はドキリとする。
 こんな主人を見るのは、初めてだった。最初に顔合せをした時でさえ、こんな表情はしていなかったように思う。
「あ、の…」
「ああ、ごめんなさい。ボーっとしてたわ」
 戸惑う侍女を知って、玉はいつもの表情となる。
「大丈夫よ? 私は」
「姫、きっと王は何かお考えなのです。だから…」
 ふいと侍女から離れると、不自然に明るく玉は話を途切らせた。
 整えられた花壇を見、空を仰ぐ。
「なんだか寂しいわ。あんな男でも行ってしまうと思ったらね」
 笑う玉の背後の空を、白い鳥が飛んでいた。
 そうして暫〔しばら〕く迂回〔うかい〕してから、空の彼方へと消えた。



  それから少しばかり時を過ぎて、鳳夏宮廷へと旅装の若い男数人が来朝した。
 窟の王へと宝物の奉納を申し出た彼らは、各国を商いで回る旅商人だというふれこみであった。
 当初、不逞の輩と馴れ合う気概は屈の首脳にはなかったが、玉姫たっての希望とあって王への面通しを許された。
 鈍色の旅装束を頭からすっぽりとかぶった男、それこそが藍閑の臣、緑〔ロク〕である。
「謁見〔えっけん〕の間」に通された彼は奉納の品をズラリと並べ、意気揚々とその一品一品の格を説き伏せていった。

「――これはかの大国「清葉〔セイハ〕」の前身「葉〔ヨウ〕」の名匠侖 桂〔リン ケイ〕の傑作にございます。時の値として一万クー(注、1)はかたい名器でございます」
 なるほど、男のいうことはもっともな見事な青磁〔せいじ〕の壺であった。
「――あれが、おまえの所望する品か?」
 隣の女の言葉に、野卑た窟の王は試すように聞き返した。
「ええ」
 鳳夏の華美な衣装に身を包んだ玉は静かに頷き、一瞬責めるように連を見つめた。
「…なるほど」
 と、蓮は動揺もせず、小さく笑った。目下にひかえる若い旅商人はただの商〔あきな〕い人ではない……おそらくは、自分の命を狙う刺客であろうことは確かである。
 一部の隙もないこの所作が、一介の旅商人であろうはずがない。
「俺は何か、おまえに嫌われることをしたらしいな……理由はありすぎて見当もつかんが」
 白い玉の手を取り、接吻する蓮を玉は直視することができなかった。見てしまえば、自分の決意はまったく無駄に消え失せてしまいそうだったからだ。
「いいだろう」
 クッと口の端を上げた下品な笑みが、やわらかく玉へと向けられる。
 かたく目を閉じる彼女へと、蓮の言葉が降る。

「しかし。どうせ殺〔や〕られるなら、おまえの手で殺〔や〕られたかったぞ、玉姫」
 おぞましく輝くあの赤い瞳が、小馬鹿めかして玉を見つめた。

 ――ドウシテ…。

 玉は鳳夏の胸に置いた手に拳をつくる。自分の心が解からなかった。
 たしかに彼を自分は憎んでいるのに、相反する彼への想いが、この胸をキリキリとしめつける。
「紅、皆の者、手出しは無用だぞ」
 動揺の走った近臣たちに牽制〔けんせい〕を仕掛け、蓮は「謁見の間」の階段を一歩、また一歩と下りていく。
 玉から垣間見れる憎い男の顎のラインは、苦しいほどにすっきりとしていて、その胸を熱くしめあげるのに十分だった。
 彼は殺されるつもりだ……何の抗いもせずに死ぬつもりでいる!
 それが玉には、伝わった。彼なりの誠意のあらわれなのであろうか。

 ――笑止!
 口先で玉は笑った。
 ――彼はとうさまとかあさま……皆の仇〔かたき〕。報〔むく〕いるべきだ……
 彼は私の心までも裏切ったのだから!
 緑の腰から毒に濡れた銀色の刃が閃く。
 ――レン!

 ザクッ

 鈍い音に、男は信じられないとその感覚を疑った。
「玉姫、さま……ナ、ゼ…」
 護衛用にと携えていた女の短剣が、一突きに緑の心臓を貫いている。
 タイミングを逃した刺客は、それでも蓮を目掛けて飛びかかった。しかし、すでに戦意を宿した窟の王の前では、それも敵ではない。
 剣を持った手首を見事に蹴り上げられたかと思うと、跳ね上げられたその毒を仕込まれた剣でもって、刺客たちの息の音を止める。
「なぜ、です、玉姫様…?」
 もうすぐ息絶えようとする緑は、黒髪の真珠の肌の鳳夏の末姫に問うた。
 すると、玉は赤く濡れた手のままに、微笑んでみせる。
「そう。気づいたのよ。……他人の手は必要ない、と。今。――あの男を殺すのは……私だけだと」
 そのためには他人の犠牲もおじない強い眼差しに、緑は弱々しく開かれた目をかすかに見開くと、息のはざま呟いた。
「…お、そろしい方だ。貴女は。我が黄貴様の妃であればさぞ、心強いだろうに…」

「――ふん、俺を殺そうと言うのか? 玉姫」
 不穏な赤の瞳が、緑の屍を見下ろす玉の肩を抱いた。
「ええ、蓮。覚悟なさい、私は……。私のすべてを奪った男を逃がすほど、甘くはないわ」
 緑の血のついたままの短剣を蓮の首に突きつけ、玉は言う。クッと蓮は可笑しそうに口の端を上げた。
 不穏に輝く窟の王らしい赤の瞳。けれど、玉を魅せてやまない紅蓮の瞳。
「解〔わ〕かった、ここにいよう、玉姫。俺はおまえになら殺されてもいい……と、思っているのだから」
 しばし見つめ合うと、二人は深く互いの唇を重ねた。蓮の腕が、真珠の肌のその黒い宝石を強く抱きしめる。
「蓮。…貴方を失うくらいなら、私がこの手で殺すから」
 憎くて愛しい男へ、接吻を終えた玉の唇が今までになく色鮮やかに微笑んだ。



 これが、新しい国の始まり。
 後に「武王」と称されるようになる窟の王と玉妃の、始まりの物語である――。



6.別離へ。<・・・7(幕)。

注釈1・・・>クー。「清葉」近辺のお金の単位。1クー=125円くらい。現在でいうアメリカ$〔ドル〕ですね。

T EXT
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