1‐1.陵辱
――それは、月のない静かな夜。
鳳夏〔ほうか〕の国は窟〔くつ〕に襲われた。
遊牧民は定まった土地を持たない。ゆえに、食料も農耕民族より、はるかに安定さを欠く。……彼らの常套手段は、時として土地を有し、安定した食料を保有する裕福な国に攻め入る、略奪。
中でも脅威であったのは、遊牧民の賊、窟である。窟は、その緊迫した生活の性格ゆえか、粗暴な一族であった。礼儀も節操も思いやりも、彼らにはない。
ただ、生きようとがむしゃらになる純粋な欲だけを持っていた。それは、広い土地を持つ人間にとっては野蛮、と呼ばれたが。
その強さだけは確かである。かの大国「清葉〔せいは〕」でさえも、彼らの機動力には怖れ戦き、長き壁を廻らしたというのだから。
鳳夏の宮廷。
限りない断末魔が響いたのは、もう一刻ほど前である。長い回廊や階段には昏〔くら〕い瞳孔を放った鳳夏の武官が倒れ、ある屍〔しかばね〕の背には剣がいまだ生々しく残っている。
一撃死を逃れた者もすでに余命幾許もなかろう。ヒュー、ヒューというかすかな……死にいく者の魂の嘆きを発する。
彼らの膨大な血の流れは、床で大小の真紅の池を築きあげた。 廷内〔そこ〕に光はない。あるのは、浸るような闇だけだ。
――パシャァァン …パシャン
だれの足音であろうか。
少しずつその水音は近づいてくる。
感慨もなく赤いしぶきを闇にあそばせていた彼は、ふと突然に立ち止まった。
*** ***
「淑〔シュク〕ねえさま――!」
末姫、鳳玉〔ホウ ギョク〕の声に、姉姫、鳳淑〔ホウ シュク〕は弱々しく微笑んだ。
それは、まるで演出された芝居の一場面。
長い姉姫の黒髪は、膝立ちをし、仰向いたかげんで血だまりのある床へと落ちている。
あらわになったその喉元で、短刀の刀身が白々と輝いた。
「やめて! ねえさま!」
鳳玉は最悪の結果を予感して悲鳴をあげた。
父王ももはや殺され、母妃も姿が見えない。多くいた女官も霧散し、衛兵もどこともなく消えた。
自分の身内と呼べる者は、この姉を残してはいなかった。
「堪忍〔かんにん〕、堪忍よ。許して、ギョク…」
姉姫の黒の瞳は、すでに希望を失っている。
「……ゥ…!」
グ、と鈍い音がして、決して太くはない淑の首からは、とめどない紅い血が飛び散った。いつしか朱の河となったそれは、座り込む玉の足下にまで迫ってくる。
「ね、えさま…」
ゴロリ、と息絶えた姉の屍には無数の抵抗したらしいむごい痣。乱れ引き裂かれたその姿からは、何があったか一目瞭然であった。
それでなくても、窟に攻め込まれた国がどうなったかは、大陸の果ての国々でも噂になるところである。
辱しめられたのだ。
と、玉はキュッと唇を噛んだ。運良く彼女はここまでそのような輩には出会っていなかった。
そうして、姉、淑は運悪く遭遇し、その恥辱に耐えられなかったのだ。もともと誇り高い、高潔な姉だった。
何よりも汚れることを……侵されることを恥とする。
――ピシャぁぁぁん
「 ! 」
それは、血だまりにだれかの足がはまった音だった。
静かなものではあったが、音響効果のあるここ「載冠〔たいかん〕の間」はよく響く。しかも、こう物音がしないでは、なおさらだ。
ビク、と身を竦めると、玉はその月の光のない夜の闇の中に、一人の男を見つけた。服装からすぐに窟の民だと判る。
遊牧民独特の馬に乗るためだけに作られた革靴や、短くアッサリとした身軽な衣服。何より浅黒く鍛えられた肌と血に濡れた剣が、農耕民族のもつ生活のおだやかさを欠片〔かけら〕も見せなかった。
玉は怯えを隠そうと彼を見据えると、ジリと後ろへかすかな間合いをとる。
「よく隠れていたな、名は?」
その黒髪はよく日に焼けている。
若い男は他の窟の者とはどこか違う趣で、問う。しかし、ほかは闇にまぎれているのに瞳の色だけはギラギラと不穏に、窟の色である赤に輝いていた。 「…ひ、人に名を問うのなら、まずそちらから名乗るのが礼儀ではありませんか!」
精一杯の虚勢を張り、玉は言い放つ。
ピクリ、と眉尻を上げた男は、一歩、彼女へと歩み寄った。まるで、その動きは反応を面白がるように、緩慢と。
襟元を片手で崩す。
「ならば答えてやろう、俺の名は窟の蓮〔レン〕」
また、一歩と彼は近づく。
たえきれなくなって玉は男から背を向け、逃げようとした。
が。
「や…」
ガシ、と軽々と両手首を置さえこまれ、どうにも自由がきかなくなる。
黒髪から男の不穏な瞳が、まっすぐと残酷に玉を覗き込む。
「やめて…やめ……ッ」
男は玉のあらがう声に耳を貸さなかった。馬乗りになった彼は、彼女の上等の絹の胸元を血に濡れた剣でかすめるように切り裂くと、そのはだけたところから容赦なく素肌に触れてくる。
踏み荒らされる前の新雪を思わせる白い地へ、熱い風が降りてくる。
非情なほどに優しく、男の指が滑りだした。
深く女の唇を塞いだかと思うと、男は顔をしかめた。
「……名を名乗ったんだ、見返りくらいくれてもいいだろう? 姫」
口の端から紅い血を見せ、男は抵抗を見せた玉の瞳を静かに捕らえる。それが、彼女にとって一番の恐怖であることを知っているように、ただ少しの風も起こさずに。
ツイ、と玉は彼から視線をそらした。
「おまえの名は?」
「………」
黙って顔を背けていると、否応なしに男は玉を思い通りにする。
自分の方へと玉の小柄な顔を向けさせると、もう一度問う。
「名は? 姫」
嘲笑でも浮かべているような赤の瞳を、玉はキッと険しく睨み付けながら答えた。
「……玉」
「玉、か。鳳の王の末姫だな」
男は鳳夏の内情をよく知っているらしい。あっさりと言いあてた。
「…俺か? 窟の蓮と言っただろう?」
その時、玉はハッとあることを思いだした。
窟の蓮……それは、窟の王の名ではなかったか?
男も女も、子供も年寄りも、逆らうものには死をもって贖〔あがな〕わせるという窟の冷酷王。彼が王位に就いてからというもの、確かに窟は先代よりも栄えているというが、また被害に遭う国々の名も多くなっている。
「――覚えていて、……窟の王。私は、淑ねえさまのように簡単に死んではやらないわ」
勇ましい台詞。とは裏腹に、玉の頬は幾筋もの涙の跡がまだ新しかった。無理矢理に身体を開かされたその疼痛と恥辱のせいか、あるいは……つい昨日までは当然であった平穏の日々の崩壊を知った少女の自我が言わしめた最後の砦のごとき嘆き。
すると、窟の王もまた、口の端を上げて笑った。
「覚えておこう、玉姫〔ギョク ヒ〕。おまえは今日から俺の女となるのだからな」
すでに両手首の縛も解かれてはいたが、もう女にはどうする気力も萎えていた。
あとどれほどの時間が男との間に流れるのか……彼女には気怠かった。
そ、と男の手が彼女の腿〔もも〕を撫でた…。
静かな夜は、それよりもはるかに静かな朝を、迎えようとしていた。
1・・・>2.安住へ。
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