昔から、「夜」は嫌いだった。
ひとりでいると、さみしさが募る。誰もいない世界に息の仕方もわすれるほど。
白いシーツに包〔くる〕まってずっとふるえていたの。
そばにいて。
孤独な心は、あの人をたまらなく焦がれていた。
本当は、わたしもあの人のそばで眠りたかった――そう、本当は。
黒と白のコントラスト。
ボードの上に展開された、駒の攻防にくすりと笑って銅色の長い髪に隠された翠緑を思わせる青の瞳を細めた。
「 まだまだね 」
チェック・メイトを宣言して、黒い王駒を取る。
対座するイフリア司法院の「裁きの天使」は、悔しがる動作もせずに笑って言った。
艶やかな亜麻の瞳に、やわらかな栗色の髪。
その顔にはいつも、優しい笑顔が絶えない。
「相変わらず、お強い……貴女には勝てないな。ファン=ファナ」
「ふふ。上手いわね――最初にやったときよりはアナタも手強くなったわよ? アルザス」
もう一手、お相手できる? とうかがって相手は女性の誘いを断るような無粋な男ではなかった。
「喜んで――」
ふたたび、静寂の中で駒を進める音だけが時折響いた。
目の前のおだやかな春の木漏れ日のような彼を、不思議な気持ちで眺めた。
昔……と言ってもファン=ファナにとっては、それほど遠い昔ではないが……愛した男の面影が重なって、彼が愛した女性が笑っていた。
(わたしをあの場所から、本気で救おうとしてくれたのは 彼 だけだった――)
だから、恋心が芽生えても不思議じゃない。むしろ、当然だった。
それを考えるとあの人、ユーリア・ディエ・トラドゥーラは「無自覚で タチ の悪い男」ということになるのかもしれない。
一番大切な妻がいるにも関わらず、必要以上にファン=ファナに優しくして期待させた。
彼にそんな女性ができているとは思わず、募った思いは口にしようとした瞬間見事に砕けた……出迎えた彼女の姿を今でもありありと覚えている。
『 おかえりなさい! 』
そんなふうになんの衒〔てら〕いもなく抱きつかれたのは、はじめてだった。
戸惑っていると、彼女はあわてて飛び離れ覗きこんできた。
ファン=ファナはこの時、――はじめて泣いた。
かなしくて、うれしかった。
愛していたから。
二人とも、幸せになって欲しかった。
自分の想いを封印することでそれが、叶うなら……くるしくてしあわせだった。
でも。
と、最近可笑〔おか〕しくて仕方ない時がある。
愛した人と恋敵との息子である目の前の彼。
そのアルザスと、こんなふうにおだやかに夜の孤独を過ごしているなんて 妙な めぐり合わせもあるものだ。
ファン=ファナの鮮やかな赤の唇が弧を描いて、ふわりと笑った。
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