「――おめでとうございます。妊娠二ヶ月、七週目に入ってますね」 「ほんとう、ですか? 先生」 「ええ、定期的に検診に来てください。安定期に入るまでは、無理はしないように注意してくださいね」 「はいっ、先生」 ……というやり取りが、日常的に繰り返されている杉本マタニティクリニックで、院長である杉本栄〔すぎもと さかえ〕はおやおやと内心驚いた。
最初の印象は、若い夫婦だな……だった。 年齢が、ではなくそのかもしだす雰囲気が若々しいというか、初々しいというか。 初診の時、彼女――竜崎朱美夫人は一人でやってきて上記のような定例の挨拶が交わされ、今回の二度目の診察に訪れた。今回は夫である竜崎菫氏とその長男も伴ってやってきた彼女は、診察室に入ると初診の時と同じように、それは元気に笑って言った。 「こんにちは、先生」 訊かなくても分かることだったが、型どおりの確認をしておく。 「体調はどうですか? 竜崎さん」 「はいっ、バリバリです。食欲ありすぎて困るくらいで」 カラカラと小気味よく言うと、隣の物静かな夫に視線を投げる。 「さっきも子どもに注意されたんです、わたしって暴れすぎなんですって」 「ははあ、そういえば前の診察の時もありましたねえ」 「あはは、スミマセン」 「なに? 朱美。前もあそこのエスカレーターで挟まったの?」 正確に言うと、前は駆けこんできた子どもたちのために閉まりそうな扉を身体で止めた……のだが、今回は彼女自身が駆けこんで挟まりかけていた。 「んー、あれ?」 ふと、不思議に思ったのか竜崎夫人は杉本院長を見るとおずおずと訊いた。 「せんせい、もしかして また 見てらしたんですか?」 じつは、院長室と診察室の廊下の窓から、受付の横にあるエレベーターがよく見えるのだ。 思わず思い出して、杉本院長は笑った。 「はは、旦那様がいらしてよかったですね。今回は扉に挟まれずにすんだじゃないですか」
黙っていれば、竜崎夫人はごく普通に可愛い「若妻」だった。
腰まで伸びた長い髪をひとつの三つ編みでまとめて、顔の化粧っ気はほぼなく、色付きのリップをつけただけのような自然な唇とコロコロとよく動く瞳。見ていて時々驚くような突飛な行動をするから、思わず目で追ってしまう弾けた子どものような女性〔ひと〕……と例えたらどういうふうに思うだろう? そんな彼女の旦那はと言えば、ナースが目で追うほどの整った容姿の男性だった。色素の薄い髪に紫がかった不思議な色合いの瞳、物腰はおだやかでおっとりとした印象なのに行動は流れるように卒がない。 エレベーターで挟まれそうになった夫人を助けた時も、まるで最初から見越していたように扉を片腕で止めて、胸の内に入った彼女に何事か囁いていた。 遠く離れた場所からだったので何を言っていたのかは、想像するしかないが……それが、また絵になるからナースたちが色めきたつのも仕方ないだろう。 ――しかし。 今、待合にいる彼らの息子に対しての常軌を逸した待遇は考えものかもしれない。看護婦長である母に、注意を促さねば……と、杉本院長は考えた。 「あ、蒼馬が看護婦さんたちにお世話になっちゃって、すみません」 杉本院長の思惑を察したのか、竜崎夫人が恐縮した。 「いえ、いいんですよ。騒いでいるのは、彼女たちの方なんですから」 診察室の方にまで声が響いてくる騒がしさに眉をひそめながら杉本院長は言って、「大きなお子さんがいるんですね」と話をそらした。 「ええ、今年の春から小学三年になります」 「ということは、前はうちの父の代に来られたんですか」 じつは、それも杉本院長の関心事のひとつだった。産婦人科の病院長としては甚だ遺憾なことではあるが、彼は人間観察が大好きなのだ。 インターンで大学病院の産婦人科にいた時も、それでよく教授に注意を受けたものだったが……。 「そうそう! そうなんです。先生が若くなっててビックリしちゃった……院長先生、あ、前院長先生ですね。お元気なんですか?」 「まったく困ったもので、早々に隠居しちゃうんで引き継いだコッチは大変なんですよ。うちのは高校教師してるんで、母だけは看護婦長として残ってくれましたが……」 顔色がかげった竜崎夫人に苦笑して、杉本院長は首をふった。 「ああ、ご心配なく。父はすこぶる元気です……隠居は単に遊びたいだけのようですから」 安心した夫人へ、ようやく本題に入る。 「じゃあ、診察しましょうか。こちらにどうぞ」 ふと、竜崎氏と目があって杉本院長はとある事実に思い至った。 (――ああ、なるほど) ずーっと、奇妙な違和感を感じていたが、そういうことなのだと納得した。 敵意のような、憎悪のような視線。 物静かな印象なのに、内にある感情はとても熱いのかもしれなかった。 「竜崎さん、ご主人に愛されてらっしゃるんですね?」 「は? んなっ、なに言い出すんですかっ!」 杉本院長のくすり、とした囁きに竜崎夫人はきょとんとして次に真っ赤になった。 「 いや、じつに羨ましい 」 本当に、初々しい夫婦だ。とてもあんな大きな子どもがいるとは思えない。 杉本院長は思い、なんとなく省〔かえり〕みる。 高校教師をしている妻とこれくらい初心〔うぶ〕に愛し合えたら、いいのかもしれない……と。 思いついて、彼はひとり悦に入った。
おわり。
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