服飾関連企業『苑〔えん〕』の営業企画部。 午後の休憩を終えて、戻った水野陽平〔みずの ようへい〕はめずらしい客にその足を止めた。 頬のあたりで切りそろえられた真っ直ぐな黒髪に悪戯っ子のような生き生きとした瞳、その腕には一歳にも満たない赤子を抱いている。
『苑〔えん〕』一番の女子社員人気を誇る、竜崎菫〔りゅうざき すみれ〕の「一の人」――朱美〔あけみ〕姫だ。 陽平がめずらしいと思うのには、理由〔ワケ〕がある。 おっとりとした菫の意外な一面というか、彼はこの奥方をあまり人に見せたくないようだった。 「独占欲」、おおよそぼんやりとした普段の彼からは想像しにくい単語である。 「朱美姫」 陽平が呼ぶと、彼女は「あ」とそれは嬉しそうに目を見開いた。 「水野さん! ちょうどよかった。コレ」 差し出された茶封筒に、陽平は首を傾げる。 「何? ダンナにでなく俺に?」 「菫さんに頼まれてたんだけど、今朝渡すの忘れちゃって……でも、水野さんからの頼まれモノだから、手間が省けちゃった」 ふふふ、と笑って、朱美は言った。 「俺からの頼まれモノねえ?」 なんだったかな……と首を捻〔ひね〕ると、すぐに朱美が豪快に謝った。 「ゴメンネ。遅くなっちゃったんだけど、なんかモデル不足なんだって? で、うちの蒼馬〔そうま〕と由貴〔ゆき〕を臨時で使いたいって聞いたんだけど……」 「ああ、 アレ か。すみませんねえ……ホント、困ってるんですよ」 ようやく思い出して、陽平は茶封筒を受け取った。 そして、あやしく彼女を見る。 (そうだ、直接――) 「――ところで、朱美さん」 「はい?」 その時。 ふっと、香った香水に陽平が言葉を切る。 (あれ?) と、首を傾げて辺りをうかがった。 今、確かに「彼」の匂いがしたと思ったのだが――。 「どうしたの? 水野さん……なんか、言いかけたと思ったんだけど」 「そう、あの……んー? あれ?」 くんくん、と犬のように嗅〔か〕いで、マジマジと朱美を見た。 「この香水って――」 「僕のだよ」 と。背後で静かな声が響いた。 しかし……、静かすぎるというのも怖いなあ、と陽平は肩をすくめた。
「あぅっ、だぁぅ」 朱美〔あけみ〕の手に抱かれていた生後一年にも満たない赤子が、手を伸ばした。 色素の薄さは、父親である菫〔すみれ〕譲りで髪も目も茶色がかっている。 「菫さん」 朱美が、顔を向けるのと同時に菫の手が、彼女から次男坊・由貴〔ゆき〕を抱き上げた。 あまりに自然だったので、ここが会社だということも忘れてしまいそうだ。――しかし、ここは確かに「社内」なのである。
*** ***
「見た?」
響子が声をひそめて他の4人に確認する。 それぞれがそれぞれにうんうんと、頷いた。 「まさか、とは思ったけど」 「そうよぅ、竜崎さんてば、わたしたちと話していた途中から急に立ち止まってさあ」 「わたしなんてっ、水野さんの奥さんかと思ったもんだから! 「美人ねー」とか褒めちゃったじゃない!! ばかーっ」 ぐぐ、と悔しそうに噛みしめると、つなみは加世に泣きついた。 そのつなみの頭を撫でながら、加世は目を細めて言った。 「そうね。でも、顔……見えなくない?」 「………」 一文字シスターズである、篠響子〔しの きょうこ〕・森早奈恵〔もり さなえ〕・流瞳子〔ながれ とうこ〕・一つなみ〔にのまえ つなみ〕が菅加世〔すが かよ〕の言葉に、バッと顔を見合わせる。 「うそでしょっ!」 響子が叫んで言った。 「そうよっ、わたしは見てない! だって最初、水野さんの背中越しにしか見なかったし!」 「見た人見た人、誰かいないー?」 「水野さんも竜崎さんも背が高いから」 「あーっ! なんで、最初にもっとしっかり見なかったのよーっ」 遠巻きにして騒ぐ彼女たちの場所からでは、時折のぞく彼女の肩とか手とかくらいしか確認できなかった。 そして、5人が収穫できたのは帰る彼女の後ろ姿と……残り香。 「あー、やっぱり この 香水だあ」 早奈恵が言うと、社内の窓から下を見てつなみがやっぱり悔しそうに後を続けた。 「竜崎さんと同じ、『 騎士 』ね」 はー、と息をつくと、一文字シスターズは窓に群がって彼女の姿を追う。 今となっては、小さな人影にしか見えない奥さんの存在に――。 「大きいなあ……」 と、誰ともなく呟きが洩〔も〕れた。
おわり。
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