千住貴水〔せんじゅ たかみ〕は、遠く離れた小夜原〔さよはら〕なつきを見て、視線を戻した。
知らないうちに追ってしまうその長い黒髪と、意志の強い眼差し。
突き放したのは自分だというのに、身勝手にもほどがあった。
(まさか、彼女が突き放してもそばにいてくれるとでも、思っていたのだろうか?)
いや、本当は半分、そんな都合のいいことを考えていたのかもしれない。
なつきなら、受け入れてくれると……浅はかな考えが、きっと彼女というかけがえのない美しい存在を欲望とともに汚してしまったのだ。
なつきの誘惑はきっかけであって、結局はあってもなくてもいつかは貴水の甘えが彼女を襲っていただろう――。
離れていって、よく分かる。
彼女という存在のかけがえのなさ。
一度、手にしてしまえば手放すことなどできない。
その声を、その髪を、その眼差しを……もっと、そばで感じたかった。
しかし、それは身勝手な欲求だと分かっている。
〜 プレリュード 〜
本当は、触れたい。
もっと、君にキスしたかった。
僕しか見えなくなるように――。
アンサンブル室に鈴柄愛が入ってきた時、貴水は一瞬、なつきかと思って苦笑した。
( 僕は、何を期待しているんだろう? )
と、自分でも笑えて、愛が何をしに入ってきたのか、なんて考えもしなかった。
「千住くん、小夜原さんと別れたって本当?」
「本当って言うか……もともと、付き合ってもなかったよ。僕に彼女はできすぎてる」
「じゃあ、千住くん。告白してもいい?」
貴水はぱちくり、と目を瞬〔しばた〕かせて首をかしげた。
「告白って、僕に?」
「わたし、ずっと好きだった。葉山くんが――」
「ああ」
なるほど、と貴水は納得した。昔、天野のピアノ教室にいた頃の話ならまだ、理解できた。
しかし、愛の告白はそんな貴水の理解を覆〔くつがえ〕して続いた。
「ここで会って、嬉しかった。だって、やっぱりまだ好きなんだもん」
「………」
「付き合って欲しいの」
ちょっと、待て。
と、貴水は呻いて困惑する。
なつきの告白の時とはちがう、まったく考えられなかった。
「付き合うって、僕と君が?」
「そう。真剣にお願いします」
(そんなこと、言われてもな……)
と、こんなシチュエーションを考えたこともなかったので、どう断ればいいのかさえ分からなかった。
ただ、分かるのは、
「――君と小夜原さんはちがうから」
と、いうことだけ。
食い下がる愛に戸惑っていると、アンサンブル室の扉がふたたび開け放たれた。
貴水は夢でも見ているのか、と思った。
でなければ、願望だろう。
なつきに抱きつかれて、すぐそばに息がかかって、服と服を伝わって全身を取り巻く包帯をも突き抜けて肌に届く身体のぬくもり。
「千住くん、いい?」
「え?」
「わたしが、千住くんのそばにいても……いい?」
なつきの言葉は、そのまま貴水の願望だった。
だから、抗えるワケもなく、欲望が暴走した。
「 ひゃ! 」
と、悲鳴を上げるなつきに気遣えるような余裕はなく、ただ確かめたかった。
彼女が腕の中にいること。
彼女の確かな存在を――。
痛いと言ったって、離さない。離せない。
( 小夜原さん、君は馬鹿だ―― )
戻ってきたら、もう逃げられない。
たとえ、君が後悔しても……僕はもう、ここから君を逃がしてあげることができないかもしれない。
もちろん、逃がす努力はするつもりでいるけれど。
fin.
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