ふわりと漂う「 楊貴妃 」の甘い匂い。
彼女の言葉が――至極、簡単な言葉だったにも関わらず、それはあまりに唐突であまりに……自分には不似合いな話だった。
「 なに、酔ってるの? 」
なつきからすれば、それは決死の告白だったのでポカンと突っ立っている貴水に抱きついて、その包帯でぐるぐる巻きの鈍感男にわずかにアルコールを含んだ甘いキスをした。
そのまま、ぐらりと傾いた彼に身をまかせる。
「さ、小夜原さん……?」
彼女の体重を何とか支えて、貴水は慌てて距離をとろうとする。
それは、なつきが嫌いだからではなく、怖いからだ。
逃れることができなくなる。
しかし、なつきが逃げることを許さない。彼女らしいキッパリとした眼差しが目の前でとろけるように微笑んだ。
「千住くん、今日はここに泊まるつもりで来たの……分かる?」
〜 悲愴 〜
「泊まる、って本気?」
ぐらぐらする頭の中で、貴水はしぼり出すように呻〔うめ〕いた。
ここは、彼の一人暮らしの部屋で、彼女が泊まると言うのならおそらく単に泊まるだけの意味ではない。それが分かるからさらに困惑した。
「本気。知ってるくせに」
くすっと笑って、貴水を壁へと追いこんだなつきはさらに身体を密着させてきた。
「困るよ、僕は……」
「分かってる、すぐに全部教えてくれなくてもいいのよ。とりあえず、今日は全部を見せてくれたらね」
「 全部? 」
なつきは肯定を示すように無自覚な貴水にキスをして、その彼の指に唇を寄せた。
「この下を全部……見せて」
彼の手に巻かれた包帯の結び目をほどいていく。
貴水は躊躇〔ためら〕った。
自分の姿を人に――彼女に晒すことほど怖いものはない。けれど、そんな迷いはなつきの前では無意味だった。
「わたしも、全部を見せるから」
貴水を見据えた彼女の瞳に、迷いはなく知らぬ間に互いの気持ちが熱くなる。
「――小夜原さんって、キレイだよね」
衣服を脱ぎ散らかした部屋で、貴水が苦笑まじりに言った。
「でも、趣味は悪いよ。僕が言うのもなんだけど」
身体のあらゆる場所、特にひどいのは顔と左肩にかけてだったが……にケロイドの残る醜悪な姿を見ても、キスを返してくる彼女に半分呆れて、半分は意識が飛ぶような感動を残して呟く。
晒された女の肌は美しく、対して男の姿は醜悪だとしか思えなかった。
「どうして? わたしとこういう関係になって困ってるの……? 千住くん」
その向けられた貴水の背中に愛しさをこめてしがみつき、なつきはさらに彼への距離をつめる。
さらり、と彼女の長い髪が流れるのを背中に感じ、胸に廻された彼女のほっそりとしたピアニストの指を眺めた。
不思議な気持ちだった。
本当の母親でさえ、目を背けるこの姿に彼女は包むように触れてくる。
どこまでも、ふかく。
しかし、だからこそ貴水は理解することが出来なかった。
それほど、 自分は 強くない。
「ごめん。嬉しいけど……僕は君と、友人のままでいたいから」
こういう関係になっても。
目を閉じて、貴水は胸を絞める想いに嘆息した。
「 ごめん 」
この時。
なつきを傷つけてしまったことを、貴水は心から悔やんだ。
抗うべきだったのに、――なのに。
彼女の存在に甘えて自分の心を満たしてしまった。
なつきが好きだから。
だから、抗えなかった。
( 「好きだから」付き合えない、なんて口にしたら引っぱたかれるなあ )
と、思って思わず笑ってしまったら、本当に叩かれた。
小気味のいい音に、彼女の怒った顔。
「帰る!」
素早い動きで服を拾い上げたなつきは、あっという間に身支度を整えて貴水の部屋を出て行った。
慣れた頬の痛みと気配のなくなったいつもと変わらぬ一人きりの自宅に、貴水はベッドに転がって(まだ、口にしてないのに……)と妙なトコロで感心した。
どうやら、自分は彼女を怒らせる天才らしい。
しばらく、ぼんやりと天井を睨んで――舌に残る彼女の飲んだ「楊貴妃」の味に酔う。
甘くしびれる、クセになるなつきの味。
貴水は戸惑いながらも、この味をきっと忘れないだろうと……そんなことを思った。
fin.
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