11−ハ137 い−71番
風花音楽大学、第二期日程試験会場の教室で最後の実技試験を待ちながら、千住貴水〔せんじゅ たかみ〕は課題曲の楽譜を見ながら自由曲を暗譜していた。
指を動かしながら、考えることは試験とはまったく関係のない事柄だった。
貴水がここの受験をするハメに陥れた彼女の顔が映る。
『――じゃあわたしもそこにする』
除夜の鐘と新年の挨拶とともに、聞かされた小夜原なつきの脅迫はバレンタインの夜に選択を余儀なくされ、チョコレートの代わりにここの願書を受け取ってしまった。
〜 抒情小曲集#22 春に寄す 〜
貴水にとって、彼女ほどの才能を見放すことは難しい。
一般科目の小論文、専門科目の楽典・聴音を自分なりに埋めて……あとは実技試験だけとなった今、なつきの言うとおり意を決するかどうかが問題だった。
もともと、貴水は わざと 手を抜いた弾き方ができるタイプではない。
つくろわずに実力を出すことは、彼にとってひどく怖いことだから、中途半端な心では指がすくんでしまうのだ。
思い通りに弾くこと。
それは、辛く労力を要することにほかならない。
(君は知らないんだ。……こんな場所は、僕には似合わない)
瞑目して、指を動かすと少し、ホッとする。
最後の練習のため、受験生のほとんどが出払った人影もまばらな教室で、肌のほとんどを包帯で隠した異形の姿。試験場という特殊な状況でなければ、好奇の視線にさらされる。
「試験」という状況が、皮肉にも貴水を人目という周囲の視線から遠ざけて、落ち着かせた。
『――い−71番、音楽教室に入ってください』
学内放送で呼び出され、貴水は立ち上がった。
*** ***
黒光りするグランドピアノの前に立って、試験官に一礼をすると型通りの自己紹介をする。
「い−71番。亀水東高校、千住貴水です。よろしくお願いします」
試験官に促されて、椅子に座ると起点のキーを叩く。
ぽーん、と澄んだ音色が響いて、不覚にも貴水の脳裏を あの夜 のなつきの寝顔が横切った。
涙に濡れた頬。
ひんやりとした感触を覚えている……この 唇 が。
貴水が寝込みを襲ったなどと、きっと彼女は知らない。
両腕を構えてキーに指をそえると、貴水は胸に静かな熱情のリズムをおぼえた。
迷いがないわけではない。けれど、僕は――君に溺れてるから。
だから。
知らず、このピアノの音ですがってしまう。
( もう、絶対 あんなこと はしないから )
せめて、もうすこしの間、彼女を見つめていたかった。
fin.
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