それは、卒業式が間近に迫った3月のことだった。
急に吹いた突風に、真野日香代〔まのび かよ〕は翻った短いスカート……下には、周到に黒のスパッツを装備しているのだが……を押さえて、横を飛んでいく帽子に思わず手を伸ばした。
「ナイスキャッチ!」
自画自賛して、前に目をやると帽子の持ち主らしい男性が歩いてくるところだった。
「ひっ!」
その特異な醜い姿に、一瞬息を呑む。
火傷の痕……が、顔から首を蝕んでいる。おそらくは、その下も。
顔の引きつった少女に、彼は申し訳なさそうに言った。
「ありがとう、ごめんね」
そして、香代の持つ楽譜の入った鞄を見て「ここの生徒?」とやさしく微笑んだ。
〜 美女と野獣の対話 〜
コクン、と頷くと、彼は受け取った帽子を目深に被〔かぶ〕って、
「そっか。じゃあ、小夜原さんの生徒かな?」
「……千住、貴水?」
呆然と呟いて、香代はハッとした。
「きゃっ! ごめんなさい。せ、なつき先生なら中にいると思います。次、わたしのレッスンがあるから……」
くすり、と彼はキレイに笑って「そう」と香代の頭を撫でた。
細く長い指は、そこだけが芸術品のように傷痕のないすべらかな肌をしていた。
――醜悪な傷を持つ。
彼は、圧倒的な才能と名高い ピアニスト だ。
『小夜原ピアノ教室』のこじんまりとした二階建ての建物に入っていった……千住貴水を見送って、香代は高鳴る胸を押さえて言った。
「びっくりー」
と、ちょうど香代の前にレッスンを受けている都築勇人〔つづき はやと〕が出てきた。
香代の隣の家に住む彼は、彼女の幼馴染だったりする。
「ゆーくん!」
勇人が答えるよりも先に、腕を引っ掴みガラス張りの扉にへばりつく。
「みーはー」
呆れたように、少年は言った。
が、興奮した少女の耳には届かなかった。
「ひゃー! どうしよう!! 先生、抱きついてるっ、抱きついちゃってるよ!!」
バシバシ、と容赦なく腕を叩かれて、勇人はげんなりとなった。
「おまえね……少しは、気をきかせれば?」
「えー? だって、次わたしのレッスンなんだよ? 仕方ないじゃん。不可抗力じゃん♪」
不可抗力、という やけに 消極的な理由のわりにはシッカリと語尾が上がっている。
「あ。そう……じゃあ、僕はこれで」
レッスンの終わった勇人は、面白がる香代を放って帰途につこうとしたが、彼女に袖を掴まれ阻まれた。
「 待ちなさいよ 」
「なに。僕はもうレッスン終わったんだから、帰るのが普通でしょう?」
「ノンノン、現実は直視すべきなのね。勇人くん」
「……おまえって。オニだね、香代」
やれやれと出入り口の前の段差に腰掛けて、勇人は幼馴染の少女に背中を向けイヤーな顔をひとつした。
*** ***
「だれよ、それ?」
小さな頃から兄弟のように育ってきた幼馴染の口から、よく聞くようになった名前に香代は思いっきり仏頂面を作って問い詰めた。
「小夜原先生なら……」
「小夜原先生は……」
「小夜原先生が……」
などなど、比べられたらキリがない。
それが、幼馴染の通うピアノ教室の先生の名前だと白状させたのは――ちょうど、一年前のことだった。
都築家のピアノルームに結果報告と称してやってきた真野日香代は、練習をする勇人などお構いなしで口を開いた。
「ツアーが終わったから、二週間くらいは日本に滞在するらしいよ!」
「へー」
気があるのか、ないのかよく分からない相槌を打って、勇人は見向きもしなかった。
「もう! いくらライバルだからって無視することないじゃない。ゆーくんのそういうトコロが、子どもっぽいっていうのよ? もっと大人にならないと張り合えないんだからあ!」
「僕は子どもだからいいんです」
澄ました顔でふり返ると、勇人はふふんと笑った。
「で、小夜原先生……ほかには何も言ってなかった?」
「ほかにって?」
香代が首をかしげると、「べつに」と言葉を濁すから気になる。
「なによー、あ。ゆーくんも聴きたいと思ってお願いしておいたよ?」
にこにこと無邪気に言う香代に、勇人は眉根を寄せて訝しんだ。
「なにを?」
「へっへー、千住貴水のピアノ聴かせてくださいって。もちろん、生で♪」
「おまえって……バカだろ?」
相手は、世界的なプロのピアニストだというのに生演奏を タダ で聴こうなんて調子がよすぎるのにもほどがある。
「えー、でも。先生は聞いといてくれるって言ってたよ?」
「ま。期待はしない方がいいと思うけど?」
「エー?」
勇人の忠告に、不満顔で香代が異議を唱えた。
ピアノ教室のささやかな玄関ホールの広場で、彼が弾くにはグレードの低いグランドピアノが歌っていた。
勇人の 一般的 予想とは裏腹に、世間知らずな香代の 常識 の方が今回に限っては有効だったらしい。もちろん、「恋人」であるなつきからの頼みとあっては、断れなかったのかもしれないが――。
小鳥が囀〔さえず〕るような、楽しげな旋律。
一曲が終わると、目をキラキラとさせた香代が「もっと、もっと」とねだる。
その不躾な少女のわがままに、柔和な微笑が醜悪な傷を負った男の顔に刻まれる。
「何がいい?」
「なんでも! いま一番弾きたい曲を聴かせて!!」
ふと、彼はピアノの横に立ったなつきへと誘うように呼んだ。
「 なつきさん 」
ある低音のメロディを奏でると、なつきは目を瞠って……ゆっくりと微笑〔わら〕った。
示したワケでもないのに彼の隣に座ると、高音のキーを叩く。
二人で弾くピアノ。
低音と高音の旋律は、まるでちがう音楽のようだった。相容れないメロディがいつしか重なって、香代は目を丸くした。
こんなピアノを、聴いたことがなかった。
優しく、包むような。それでいて、胸が痛くなる。
「話してる……」
「美女と野獣の対話」
マ・メール・ロアだよ……と勇人が「あーあ」とでも嘆くように、教えた。
「先生、いなくなっちゃうかもな」
「えっ?」
驚いて、香代はすぐに納得した。優しくて、ふかい二人の会話は聴いているとなぜか胸が苦しくなって、無性にさみしさが募った。
それは、たぶん、予感だった。
しばらくして、『小夜原ピアノ教室』には新しい先生が入ってきた。
ある日――経営者であるなつきの母親が、コソリと生徒たちに打ち明けた。
『もうすぐ、あの娘……日本を離れるの』
と。
えー、と騒ぐ子どもたちの中。
香代は、先生がいなくなる事実をぼんやりと受け止めて、さみしさを感じながらやっぱり「二人」でいてほしいと思った。
あんなに幸せに響くピアノを、わたしは知らない。
fin.
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