キレイに笑った、彼の顔が浮かんで小夜原なつきは愕然とした。
日がまだ短い四月の夕刻、旧校舎の使い古された扉に背中をつけて考える。
あれから、千住貴水はここに姿を現さない。
ひた隠しにしてきた彼のことだから、当然と言えば当然の選択だった。もう二度とここに来るつもりはないのかもしれない……と、そう思うと、無性に腹立たしくて寂しかった。
(――どうして?)
と、自分の不可解な気持ちに問いかけて旧校舎の脇に並んだ古いサクラの木を仰いだ。
盛りを過ぎたそれは、静かに花びらを散らしていく。
〜 威風堂々 〜
長い前髪と、白い包帯の向こうの分かりにくい表情が確かに困惑してなつきの顔を映した。
彼女の提示した白い紙を見て、さらに凝視する。
「コンクール?」
「そうよ。千住くんも もちろん 出場するでしょう?」
「……どうして?」
あの日から旧校舎へは足を踏み入れていない貴水は、なつきがずっとそこで待っていたことを知らなかった。だから、彼女がずっと話しかけてこなかったのに急に声をかけてきて、渡された話にどう反応すればいいのかさえ分からなかった。
もちろん、と言われても困ると貴水は思いながら、突き放すことはできなかった。
「わたし、考えたんだけど……千住くんが今日みたいにピアノ弾くと、ムカムカするの。バカにしてるのかと思って――でも、ちがうんだよね? それも、なんとなく分かってるのよ」
なつきは考えて、そっと首を傾けて貴水へと顔を上げる。
「だからね、付きまとうことにしたわ」
「 は? 」
その。
彼女独特の論理の組み立てに、貴水はついていくことができなかった。
「ちょっと待って、小夜原さん。……それは、どういう」
手を上げて、説明を求めるとなつきも少し、難しい顔をした。
「だからね、ムカムカするのよ、あなたのそういうトコロ。分かる?」
チロリ、睨んでみせると貴水は苦笑いをして、(美人が怒ると迫力があるんだな、やっぱり)とやけに落ち着いた頭で考え、「ごめん」と謝った。
「なんとなく分かるような気もするけど、……やっぱり、よく分からないな」
なつきは貴水の微笑みにぼんやりとして、彼の不思議そうな眼差しにハッとした。
「小夜原さん?」
「わ、分からなかったら分からなかったでいいのよ。とにかく、こういうの精神衛生上よくないって思うわけ! だったら、こうするのが一番じゃない?」
「こうする?」
さらに、よく分からないと首をかしげた彼に、なつきはにっこりと笑った。
「やる気を出してもらうのよ、あなたに。――名案でしょ?」
なつきに押し切られる形で、コンクールへの出場を約束させられた貴水へ彼女はまだ何かいいたげにしていた。
「まだ、あるの? 小夜原さん」
疲れたような貴水の表情に、なつきは先ほどまでの強気な様子とは変わっておずおずと口にした。
「あのね、もうあそこでは弾かないの、かなって。思って」
「あそこ? ああ、旧校舎の?」
貴水が何気なく言うと、思いのほか真剣な顔で肯定された。
「そう。もう弾かないの?」
「君に聴かれてしまったし……誰に聴かれるかも分からない場所だから、頃合かと思ったんだ」
すると、なつきが強く訴えた。
「わたし、誰にも言ってないよ。言うつもりもない……だから」
「………」
ぽかん、とした貴水に頬を染めて、なつきは「なによ」とそっぽを向いた。
「仕方ないじゃない。わたしは あなたに 弾いてほしいんだから!」
「聴きたいの?」
訊かれた言葉に、真っ赤になる。
そう、きっとそれが本音だった。
コンクールに誘うのも、その延長。
「知らなかった。小夜原さんって、案外大胆なんだね。そんな告白されるなんて思わなかった」
からかうように見つめ、
「気に入ったの? 僕のピアノ」
「そうよ! 悪い?!」
くすくすと笑う貴水になつきは開き直って、声を荒げた。
「いいや。光栄だけど……でも、あんまり勧められないな。君のために」
と、笑いながらも静かに言う彼は、闇の瞳を細めた。
どうして、と口にしたくてできなくなる。
息ができなくなる音色。
「 言っただろう? 小夜原さん。僕のピアノは「 絶望 」だから、って 」
*** ***
ふ、と笑った先生に真野日香代〔まのび かよ〕は不満げに口の端を曲げた。
「なつき先生?」
「あ、ごめん。思い出しちゃって」
『小夜原ピアノ教室』の生徒である、彼女の問いに昔のことを思い出した。とても昔のことのようだけど、本当はまだそんなには離れていない過去の話……なつきの左の薬指に光るプラチナリングに「先生の彼って、どんなふうに出会ったの?」と小学六年の少女からすれば気になるトコロを訊いてきた。
「先生ってば、やらしいなあ。彼氏との何を思いだしてたの?」
「……んー、彼氏って千住くんのコト?」
どっへー、とピアノにうつ伏せに平伏して、香代は「せんせー」と嘆いた。
「当たり前でしょー。先生の「彼」の千住貴水さんって言えば、チョー有名な世界的ピアニストなんだから。もう、うちのお母さんだってキャーキャー言ってるんだよ……先生のところに通えば会えるかも! なんてさあ」
圧倒的なそのピアノの音色だけでなく、独特の容姿も「千住貴水」の魅力だった。
目を背けたくなる醜悪な火傷〔キズ〕でありながら、舞台の上ではけっして「醜い」とは思わない。その音に魅了され、そのキズに囚われる。
「そうなの? でも、しばらくは会えないと思うけど。今ヨーロッパ・ツアーの最中だから、年内は日本に帰って来ないのよ?」
「それも知ってる。いいんだよ、お母さん。せんせーのこともファンだから」
『千住プロダクション』に籍を置いている小夜原なつきと言えば、ソロで活動はしないものの補佐的なピアニストとしてテレビにも出たり、有名なアーティストのコンサートに駆り出されたり、あるいはピアノの指導者としてプロダクションの若いピアニストに教授を依頼されたりと多方面で多忙を極めている。
なまじ、見場がいいだけに芸能界からの誘いもないワケでもなかったが……それでも、ソロ活動に移らないのは長期的なコンサート・ツアーを嫌ってのことだった。
「そんなことをしたら、教室を続けられないじゃないの」
と、コレが千住久一に口説かれた時の彼女の常套句。
「へぇ、そうなんだ。嬉しいわね」
香代の言葉に素直に喜んで、なつきは恨みがましい少女の瞳に苦笑した。
「ごめん、ごめん。べつに、カヨちゃんを誤魔化してたワケじゃないのよ……千住くんとは彼氏彼女って関係じゃなかったから」
今だって、たぶん恋人同士じゃない。
そういう機会がなかったワケではないけれど――。
「え? でも、婚約してるんでしょう?」
指輪を示して、胡乱げに訊く。
「まあ、一応そうみたい。正式なモノではないけれど、ね」
彼らしいと言えば、彼らしい「曖昧さ」に薬指のリングに唇をつけて、知らず口元がほころんだ。
けれど、小学生の生徒には分からなかったようだ。
体よくあしらわれたと感じたらしい少女は、いきり立つ。
(そりゃ、そうか)
「せんせー、やっぱり誤魔化してるでしょー。ずるーい!」
真野日香代は拳をふり上げると、力いっぱい訴え、小夜原なつきは笑って彼女に許しを請うた。
fin.
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