『ごめん、小夜原さん』
ドイツから届いた千住貴水の謝罪の声に、なつきは喧嘩腰になってまくし立てた。
「どうして?! クリスマスは教会に連れて行ってくれるって言ってたじゃない。なのに……わたし、すっごく楽しみにしてたんだよ!」
めずらしい、貴水からの誘いだっただけにショックは大きかった。
受話器から聞こえる、貴水の声も申し訳なさそうに優しく響いた。
『うん、そうなんだけど……急に断れない用事ができたんだ。できたら、僕も小夜原さんと行きたかったんだけどね』
「……用事って、なによ?」
つまんないことだったら、タダじゃおかないと心に決めて訊ねる。と、返ってきた答えは……ある意味、なつきには 面白くない ものだった。
『 理事長のコンサートに 徴集 されたんだ 』
〜 アヴェマリア 〜
貴水の在籍するドルツムジカ音楽院の理事長は、四十代の才能豊かな女性だった。ピアノだけでなく、ヴァイオリンやパーカッションなどにも精通し、それぞれに高い評価を受けている。
「四十代」とは言っても、外見は三十路でも通用するほどの若々しさを保ち、少女のような無邪気さも彼女には とても よく似合っていた。
長いクセのない銀髪と、薄い青の瞳の彼女……べつに、嫉妬をおぼえるような間柄ではないとは思う。
外見は確かに可愛いし、年齢よりも遥かに若いとは言え、彼女と彼はあくまで師弟の関係でしかない。
本当は、分かってる。彼女には感謝こそすれ、妬むような相手ではないということも。
けれど。
なつきにはあの時の確執――貴水の留学を発端とした一連の出来事、それがこの理事長の提案から始まったという揺るがしようのない事実から どうしても 彼女のことを好きになることができなかった。
それは、例えばこんな二人を隔てる障害のような出来事で……心をざわつかせる。
「そう……だったら仕方ないね」
唇を噛んで、彼を困らせるようなことを言わないように耐える。
黙らなければ、それを我慢できそうになかった。
少しの沈黙が流れて、ふと受話器の向こうの気配が乱れる。
「千住くん?」
『Tut mir leid!』
〔ごめんなさいね!〕
なつきの耳に飛びこんできたのは、そんな無邪気なドイツ語の謝罪だった。
『サヨハーラ、ワタシも二人の時間を奪うのは とっても 心クルシイのデス。けれど、どーしてもセンジュに「アヴェマリア」をお願いしたくて! だって、クリスマスなんデスヨ?』
ステキだと思いまセンか! と、突然電話口に乱入してきたかと思えば、他意もなく力説するアンリ・サキ・シューリッツになつきは息を呑んで……「どうして」と呟いていた。
『おぅ! お邪魔でしたネ。ワタシったら……ゴメンナサイ。センジュも、許してクダサーイ』
そう言って、受話器をやりとりする空気が流れて、ふたたび受話器ごし彼の声が聞こえた。
『ごめん、小夜原さん……学校の公衆電話なんだ、ココ』
「そーなんだ。――ねえ、どこでやるの?」
『え?』
「先生のコンサート、弾くんでしょ? 「アヴェマリア」」
『うん……あのさ、やるのイタリアのフィレンツェだよ?』
なつきの意図を正確に把握した彼の、戸惑いがちな眼差しが目に映るように想像できた。
「だから? なによ、迷惑?」
受話器の向こうで、声を立てて笑う彼が「いや」と否定した。
『 君のために、弾くよ。小夜原さん 』
遠く、始業のベルが鳴って簡単な辞去の言葉を交わすと、受話器からはツーツーという無機質な音が響いた。
耳から離すこともできずに、握り締めてなつきは立ち尽くす。
「……すごい。殺し文句じゃない」
彼を すごい と思うのは、それをまったくの無自覚で発するということだ。
敵わないなあ、と半ば敗北感さえ覚えて耳から受話器を離すと、なつきはそこにキスをして「頑張ってね」と小さく言った。
チン、と公衆電話の受話器を下ろして、貴水は横で奇妙なリアクションしている女理事長に「どうかしましたか?」と首をかしげて訊いた。
「センジュ、なかなかヤリますね……ワタシ、思わず身悶えてしまいマシタ」
「はぁ? なんのことですか?」
ゼハゼハ、と無駄に息を乱れさせたアンリは、愕然と目の前に立つ長身の彼を見上げてその醜悪な痕のある顔をマジマジと眺めた。
深い闇の瞳は動じることなく、ただその色を曇らせる。
まるで――いま、何も言わなかったとでも言うように。
「まさか……本当に無自覚なんデスカ? 嘘! シンジラレナイっ。センジュ、ソレは罪作りというものデス。改めナサイっ」
薄い青の瞳を驚愕に見開いて怒鳴りつけると、身長のわりには華奢な彼の肩を掴んで訴える。
「サヨハーラはいいとして、ほかの女の子にしたらコトですよ!」
それは、まるで口説き文句だ。
貴水が使えば、絶大な効果をもたらすだろう「媚薬」。
必死にすがりつく若々しい理事長に、貴水は苦笑いを浮かべて……やはり、よくは分かっていない表情で曖昧に頷いた。
「 気をつけます。ほかでもない、貴女の頼みですからね 」
と、彼独特のキレイな微笑を浮かべて……それから眉を寄せた。アンリが頭を抱えて、苦悶の表情になったからだ。
「シューリッツ先生?」
と、心配そうにうかがう彼に理事長は盛大なため息とともに呟いた。
「まったく、サヨハーラも気が気ではないでしょうね。コレでは」
*** ***
フィレンツェに入っても、すぐには貴水と会うことができなかった。
連絡をとれば、時間ができるのはコンサートが終わってからの 夜 だと言う。
(なによ!)
乱暴に電話を切ってから、なつきはノエルの装いも華やかなフィレンツェ市内に出た。
浮き足たった賑やかな街中を一人で観光しながら、(そりゃあ、分かってるわよ)と悪態をつく。分かってる……けれど、心はそう単純にはできていない。
すぐそこにいるのに会うことができないと、余計に寂しさが募った。
会いたい――。
街中の喧騒から逃れて入った先は、広場のすぐそばにあるドゥオモと呼ばれる「教会」だった。
そこだけは、厳正なノエルの時間が流れている。響く足音にドーム状の高い天井を仰いで、差しこんでくる優しい光がにじんでいく。
「 もうすぐ、なのに……バカみたい 」
呟いて、なつきは自分の涙に笑ってしまった。
『――今から、リハーサルなんだ……だから』
「でも! ちょっとくらい、会えないの?」
『……小夜原さん』
困惑した貴水の声に、なつきはぐっと唇を噛んだ。
彼を困らせるつもりは毛頭ないのに……いつだって、なつきの言動は貴水を追い詰める。優しい彼はきっと、いま一生懸命考えている……そう思うと、自分のわがままがどんなに子どもじみたものか、思い知らされた。
「せ……っ」
『ごめん、集中したいんだ。終わったら、会えるから』
「ッ! もう、いいわよっ」
本当は、「頑張って」と応援するつもりだった。
「待ってる」って、言うつもりだったのに。
なのに、やけに落ち着いた彼の態度に意思とは裏腹な可愛くない言葉を投げつけて、引くことができなくなった。
自分が思うほどは、彼は会いたいと思っていないのかもしれない。
本当は、……もう、あまり会いたくないのだろうか?
鬱陶しい?
そう思うと、悲しくて立っていられなかった。
貴水は優しい。だからこそ、とても不安になる。
傷つくことは、いつも――こんなにも簡単なのだ。
「 千住くん! 」
コンサートを終えてすぐに、控え室へ駆けこんだなつきはいまだフォーマルなタキシード姿の貴水へと抱きついた。
体が浮いて、全体重を彼へと委ねる。
上着のボタンが外れていたからか、はだけた胸元に頬を寄せると貴水がふかく息をついた。
胸元だけでなく、その体全体を巣食った醜悪な傷痕は彼の表情さえも醜く侵していた。
なつきの体に腕を廻してシッカリと受け止めると、線をなぞるようにきつく抱き寄せる。
「小夜原さん」
ぞくり、とする声音に顔を上げるとアッと思う間もなく唇を重ねられた。
脳天がとろけるような、熱をふくんだキスはなつきの心をひどく安心させる。
そして。
遠く……とても近いところで「パタン」と扉が閉じられる音が、聞こえた気がした。
fin.
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