目を覚ますと、ベッドの傍らに腰を下ろした彼と目が合った。
「おはよ」
と、口にすると彼は少し照れたように微笑んでなつきの長い髪に触れた。
「もうすぐ、夕飯時だけど……どうする? 小夜原さん」
〜 I Got Rhythm 〜
日の落ちる時間になっても、降りつづける雨の中。
傘を差して二人がやってきたのは、「El Pollo Loco〔エル ポヨ ロコ〕」というスペイン料理の店だった。暖色の暗めのライトで照らし出された店内に入って、若い人好きのしそうなウェイターに奥の角席に案内されたなつきは、白いナプキンを膝に広げて前に座る貴水を見た。
その眼差しの険のある様子に、貴水は不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの? ここ、気に入らなかった?」
「……そうじゃなくて。ここ、どうしたの?」
「意味が解からないんだけど、小夜原さん」
苦笑を浮かべて、「どういう意味?」と問う彼へ、なつきは疑わしげに眉を寄せた。
「千住くんにしては、こじゃれてるから。それに、あのウェイター……千住くんのこと知ってたわよね? 何度か来てるってコトじゃない?」
「ああ、ジャスたちとだよ。ホラ、音楽院のあの三人」
「男、四人で?」
こんな……見渡せばカップルばかりのトコロに来るだろうか?
なつきの目に、貴水は「いや、違うけど」と少し戸惑った。
「じゃあ、やっぱり 女の子 も一緒だったのね!」
ようやくなつきの不機嫌の原因を察した貴水は、思わず笑ってしまった。
だって、それはあり得ない。彼に限ってはそう思えた。
「なに? 僕は客寄せパンダみたいなモノだよ。確かに、彼らの方はナンパ目的だったけど」
「 な! 」
目を丸くして、なつきは貴水を見て心底呆れたように言った。
「客寄せパンダって……あの人たち、千住くんをそんなことに使ってるの!?」
信じられない、となつきはあからさまに不快を露〔あらわ〕にした。
「ナンパって言っても、彼らは真剣なんだよ。僕みたいなのは物珍しいから、人寄せにはなるらしいし……だから、小夜原さんが心配するようなことは、――小夜原さん?」
黙りこんだなつきに、貴水が手を差し伸べて問いかけた。
「そんなに僕って、信用ないのかな?」
「 え? 」
対策を考えるのに夢中だったなつきは、その時はじめて貴水の目がすがめられてることに気づく。
「恋愛感情が生まれるワケがないんだ……だって」
なつきの頬に親指を添わせ、その唇に触れた。
「 僕は、君が好きなんだから 」
「わたしだって、そうよ。だから、気になるんじゃない……信用してないワケじゃないのよ。千住くんが、誠実なのは、よく知ってる」
それは、時々なつきがヤキモキするほどの生真面目さで。けれど、それとこれとは話がちがう。
心はそう、単純ではないのだから――。
闇の瞳に、微笑まれると胸が高鳴る。
息をするのも、忘れるほど。
醜悪な傷が顔の皮膚まで侵しているのに、彼の微笑はいつだって儚くキレイだった。
「じゃあさ、早く食べちゃわない? もったいないよ」
おもむろに手を離した貴水が、提案した。
テーブルに並べられた鶏肉料理に、なつきも渋々頷く。確かに、スモークされた香ばしい匂いがしてどれもとても美味しそうだった。
「う、ん。なんか、食べ物に誤魔化されている気もするけど」
「そう?」
「その笑いが怪しいのよ、何考えてるの?」
睨むなつきを貴水が困ったように見つめた。
「べつに、何も。君を抱きたいな、という以外は……ないよ?」
サラリ、と彼がとんでもないことを口にしたのでなつきは動かしていたフォークとナイフを止めた。
「だ、抱くって……さっき、あんなにしたのに? そういう意味なの?」
彼は、くすりと笑って「うん」と頷く。
「足りないんだ、まだ」
だから、いっぱい食べてね……と、彼に生真面目に頼まれて断れるワケがない。
「 小夜原さん、真っ赤 」
くすくすと顔を背けて笑い出した貴水に、なつきは嬉しいんだか恥ずかしいんだか分からないまま声を荒げて、きっと両方だと憎々しく思った。
「た、食べればいいんでしょ、食べれば! でも、千住くん分かってる?!」
首をかしげた彼に、なつきは頬を上気させたまま訴えた。
「 わたしを満足させなかったら 承知 しないから!! 」
「 努力します 」
にっこりと、貴水は笑って恥ずかしがる彼女を優しく見た。
まずは腹ごしらえ、とばかりに注文どおりにいっぱい食べて……夜は彼に剥〔む〕かれて食べられた。
なつきが満足して、眠りにつくまで――「好きだ」とずっと囁いて。
*** ***
ドルツムジカ音楽院の敷地内で彼女の姿を見た時、ジャス・フレミングは首をかしげた。
はじめて会った時には、感じなかった何かが彼女をひどく際立たせ、目に焼きつく。
長い黒髪に、人形を思わせるきめ細かな肌……黒い瞳と色づいた唇が東洋的な美貌を形作っている。
もともと、東洋的な美には弱いのでジャスは(センジュめ、うまくやったな……)と下世話なことを考える。
『やあ、センジュは授業中かい? サヨハラ』
『ええ』
「Ja」と綺麗なドイツ語で答えて、小夜原なつきはやってきた彼に不機嫌に答えた。
『大学の見学ついでに あなた に言っておきたいことがあって……いいかしら?』
『? なにかな? デートの誘いだと、センジュに一応報告しておかないといけないね』
にこにことまんざら冗談でもない口ぶりで誘ってくるジャスに、なつきは軽く『必要ないわ』とあしらって髪を押さえる。
昨日の雨が嘘のような、乾いた風に長い黒髪がなびいた。
『 千住くんをナンパに使うのは、やめて欲しいの。分かるでしょ? 』
と、キッパリと口にする彼女にジャスは目をパチクリと瞬〔またた〕いた。
「 Oh! 」
思わず、感嘆を洩らして怒っても美しい……いや、だからこそ強く輝く彼女に笑いかける。
『すみません、レディ』
『謝罪はいらないわ。約束していただける?』
『貴女を不安にさせる行為はもう二度と……しないと誓いましょう。サヨハラ』
大仰に頭を下げたジャスに、なつきは「本当かしら?」と日本語で呟いた。
調子よく唇の端を上げて顔を上げると、ジャスはなつきの肩を抱き寄せる。
『その話はいいとして! ささ、大学見学でしょう? 僕がして差し上げますよ』
「え? い、いい。結構ですから!」
なつきが辞退しているにも関わらず、強引な手はぐいぐいと彼女を抱き寄せて歩きはじめる。
ふと、その足が止まって前を見る。
「 千住くん 」
授業が終わったらしい彼はまっすぐに二人に近づくと、『なに、してるの?』とジャスを見て、何事もなかったように彼からなつきを引き離す。
「行くよ、小夜原さん」
「え? でも……」
「いいから」
去っていく二人の背中を見送って、残されたジャスはビックリしたと目を見開く。
『 センジュが怒った 』
それは、新鮮な驚きだった。
たとえ、その特異な容姿とピアノの腕を利用しても笑っていた彼が、ただ彼女に触れただけで怒るとは思わなかった。
金髪に青い目のジャス・フレミングはペロリ、と舌なめずりすると、『へぇー』と一人ご満悦に微笑んだ。
『面白いじゃないか』
獲物を見つけた野獣のように。
fin.
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