その日は、朝から雨が降っていた。
ベッドの端に腰掛けて、下にズボンだけをはいた千住貴水〔せんじゅ たかみ〕の上半身は火傷の醜い引き攣れに巣食われていた。
その痕は顔にも同様に這っていて、整ってはいるが醜悪な傷に覆われている。
*** ***
しとしとと降る冷たい雨に、いつもの通学路を傘を差してやってきた貴水は門のところで立ち止まった。
見間違うハズのない人影は、貴水の存在を確認すると一目散に走ってきて抱きつく。
「うわっ!」
と、その慣れているはずの体重を支えることを忘れて、貴水は後ろへと押し倒されあっけなく尻餅をついた。手に持っていた傘は飛んで、はるか後方に落ちる。
パシャン、と水が跳ねて 彼女 はビックリしたように目を瞬〔しばた〕かせた。
(ビックリしたいのは、コッチなんだけど)
貴水は思って、彼女を恨みがましく見上げた。
〜 雨だれのプレリュード 〜
「 小夜原さん? 」
どうして彼女がココにいるのか。
降りつづける雨になつきの長い髪が濡れて水滴がポタポタと落ちる……水浸しになった地面に膝をついた服の端がドロに汚れていた。
理由を訊くよりも、まずはコレをどうにかしなくては――。
貴水は息をつくと、今日の授業を早々に諦めた。
サークルなどの合宿に使う音楽院の宿泊施設にあるシャワー室を借りて、その隣にあるコインランドリーで汚れた服を回しているごうんごうんという音が響く。
シャワー室から出てきた彼女は半乾きの長い髪をタオルで押さえて、にこりと笑った。
「どうして……」
貴水がようやく最初の疑問を口にした時、どやどやと外の扉がうるさくなる。
扉を開けると、顔見知りである学生が三人立っていてニヤニヤと笑っていたり、少しバツが悪そうに目を泳がせていたりした。
『なに、してるのかな?』
訊くと、一番最初に返ってきたのはニヤニヤと笑っていた彼の悪意のない笑い声だった。
『くっくっくっ、だって気になるじゃないか、センジュ。おまえに彼女がいたなんて』
『ご、ごめん。僕はよそうって言ったんだよ……お邪魔だったよね? せっかくの再会なのに』
『こらこら、学内でそんな不謹慎を許していいものか。コレは俺たちの友情じゃないか』
笑う二人はポン、ポンと貴水の肩に手やら肘やらを置いて意味ありげになつきを見、情けなく訴える友人を一応フォローする。というか、自分たちを正当化した。
『……まあ、いいけど』
貴水は息を吐いて、なつきを振りかえり手招きした。
「紹介するよ、友達なんだ」
ドルツムジカ音楽院をあとにしてすぐ、くすす、と笑ってなつきは「面白い人たちね」と貴水の肩に頭を乗せた。
別れ際、何故かバンザイで見送られたことを言っているのか、なつきと顔を合わせた途端に「ヤマトナデシーコ!」を連発されたことを指しているのか、あるいは単に貴水に今まで友達らしい友達がいなかったことを示しているのか……すべてを含んでいるともとれる、なつきの眼差しに貴水は長く伸びた前髪を気にした。
一本の傘に、二人は少し狭い。
だから、乾かしたハズの髪から雫がしたたって彼のひどくただれた肌を流れる。
「ごめん、ね? 迷惑だった?」
と、なつきが小さく謝ったから、貴水は息を呑む。
どうして、彼女が悲しそうなのか分からない。
「違うよ、どうしてそんなふうに思うの?」
なつきは、しっかりと貴水の腕にしがみついて唇を噛んだ。
「だって、千住くん……ずっと困ってるんだもの。わたしを見ても嬉しそうじゃなかったし、授業もサボらせてしまったし、あの人たちに紹介するのもイヤそうだったでしょ?」
確かに、恋人でもないなつきを説明するのは難しいものがある。
できるなら、避けたいと思うのは仕方のないことだ。
それでも、なつきは寂しかった。
迷惑がかかると知っていても――。
「会いたかったんだもの、千住くんに」
「ごめん、小夜原さん」
今日が雨でよかったと、貴水は思った。
なつきの体を引き寄せてキスをしても、傘で隠すことができる。
車道側からは見えるかもしれないが……雨で視界が遮られるから通り過ぎるほんの一瞬のことだろう。
そう思うと、止めることができなかった。
チュッ、と性急に舌を絡めて口内を貪ると、息の乱れたなつきの吐息が彼を呼んだ。
「ん。せ……んじゅ……くん?」
何とか唇を離して、貴水はまるで誘っているような無防備な彼女の眼差しと開き気味の唇に苦く笑う。
きゅっ、と背中に廻されたなつきの手が力をこめて、甘えるように抱きついてくる。
「嬉しくないワケがないのに、君はどうして僕をそんなに幸せにするんだろう」
貴水はいつだって、なつきの言葉に救われた。
突き放しても、体を繋げるだけのひどい関係を強いても、好きだと答えてくれる。それが、不思議で幸せだった。
「僕だって、会いたかった。でも、あの空港の時に断られてしまったし……だから、望むこともできなった」
時々する電話でも、口にできなかった欲望。
目を見開いて、なつきは「うそ」と呟く。
「嘘じゃないよ。「絶対行かない」って言われたから、諦めてた」
「だって、冗談だと思ったんだもの。からかわれたと思ったら腹が立ったのよ!」
それを早く言ってよ! と頬をふくらませるなつきに、貴水は「そうなのか」と頷いてホッとする。
「嬉しかったよ、校門で君を見たとき。でも、絶対来ないって言ってたのに……と思ったら、信じられなかった」
( そう、本当に「 幻 」かと思ったんだ )
だから、素直には喜べなかった。目の前から彼女が消えた時の失望を考えれば、当然だろう。
ふわり、と笑って貴水は彼女という存在を確かに感じた。
体を密着させると、伝わるしっとりとした体温。女性らしいやわらかなふくらみ、硬くなって息を呑む彼女の気配に踏みとどまる。
「僕をこんなに喜ばせて、どうするつもり?」
くすくすと衝動を殺〔そ〕がせるために訊くと、なつきは濡れた貴水の肩に触れて彼の持つ傘を落とさせた。
雨に濡れていく体をすいと引いて、提案する。
「千住くん、またシャワー借りてもいい?」
「いいよ」
そのまま、君という存在を確かめさせてくれるなら。
貴水は彼女へと手を差し伸べて、地面に転がった必要のなくなった傘を拾うべきか迷った。
*** ***
その日は、朝から雨が降っていた。
「……う、ん」
丸くなって眠るなつきの裸の背中がシーツから覗いて、彼女の長い黒髪が雨の日のしじまにさらさらと音を立てる。
いつか、君を攫〔さら〕いに行く。
それまで、僕は頑張るつもりでいるから。
「 僕が、君を幸せにできるまで 」
そのために――。
fin.
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