「俺には君を殴る理由があるけど、君に俺を殴る意味はないだろう?」
と、日間八尋〔ひま やひろ〕は久方ぶりに顔を合わせた千住貴水〔せんじゅ たかみ〕にワケの分からない理屈を口にした。
貴水は眉を寄せて、八尋を見る。
小夜原なつきのマンションの前で、バッタリと出くわした二人は睨みあって……八尋が息をついて視線をそらした。
「いつ、帰って来たんだ?」
「 今日 」
いまだ、不穏な眼差しで八尋を睨みながら、貴水は答えた。
「小夜原さんはそのことを……」
訊きながら、馬鹿げたことをしていることに気づく。
「――会いに来たら、君が彼女を襲ってた」
〜 セレナーデ 〜
「……はは、それは悪かったね」
少しも反省した様子はなく、むしろ自らの私恨の溜飲を下げたとばかりにおかしそうに声を立てる。
「小夜原さんが俺に応じなくて、安心しただろう?」
ピクリ、と貴水が反応するのを見届けて、八尋はつくづく嫌なヤツだと思う。
「俺は――空港で、君を殴らなかったことを後悔していたトコロだ。のんびりしずきだよ、千住」
ふ、と目をすがめる。
「 こんなに遅くなるんだったら、やっぱりあの時に殴るべきだったね 」
八尋は怒りにも似た優しい微笑みで、言った。
黙って殴られるつもりはなかったが……
何より、いま殴りあうワケにはいかなかった。
貴水の答えを聞いた八尋は、目を見開いて嘆いた。
「おいおい、そりゃあないだろう?」
と。前髪をかきあげて、首を振る。
「卑怯者め、俺を脅しているつもりか?」
「これが 脅し になるのは、君が 確かに 音楽家だからだ。――そうだろう?」
「……だと、願いたいね」
ハッ、と八尋は悔しそうに息を吐き捨てると、おだやかに微笑む貴水を憎々しげに睨んだ。
*** ***
君のピアノを聴くまで、僕は信じていなかった。
ピアノで気持ちが通じること……ピアノで心が強く動くことを知らなかった。
「 小夜原さん 」
パシン、と頬を叩いて抱きついてきたなつきに、貴水は素直に謝った。
ふるふると首を振るなつきの唇が首筋にあたって、こそばゆい息がかかる。
「待たせて、ごめん」
低くもう一度貴水は謝って、なつきの浮いた腰を支えた。
「ホント。来るの、遅いんだから……待ちくたびれちゃったわ!」
泣き笑いになる彼女の顔がいとしくて、離すものかと抱きしめた。
この想いが君に届きますように。
強く――君に、この音を聴かせたいと思う。
本当の心の音色は、ここにあるんだ。
fin.
|