頻繁に顔を見せるようになった息子へ、母親である葉山水江が訊いた。
「 え? 」
焦れたように、もう一度水江は言った。
今度は少し、声を大きくして。
「なつきさんとは、会っているのって訊いてるの。せっかく、日本に戻っているんだから……顔くらい見せているんでしょ?」
「……それは。まだ」
「まだって、どうして?」
貴水は困ったように笑って、「だって、ドイツに戻れなくなるでしょう?」と真剣に告げた。
表向きは元気に振舞いながら、母親の病状が刻一刻と悪くなる一方でなつきに会えば、間違いなく甘えてしまう。それが、分かるから会えなかった。
「困ったものね……彼女が待っているとは思わないの?」
「……それは、理事長にも言われました。でも、彼女が待っているのは 僕 じゃないと思うから」
そう、こんなに弱い自分では彼女につり合わない。
「だから、もう少し黙っていてください。母さん」
「……分かってるわよ」
やれやれと肩をすくめた水江は、日差しの暖かくなってきた早春の窓の外を眺めて目を細める。
「 私だって。このこと、なつきさんには知られたくないもの 」
「怒られますよ」
「そうね、そして泣かれるのはつらいわ」
と、水江は静かに貴水を仰いだ。
それから半年後、母は死んだ――。
〜 別れの曲 〜
生きている彼女と話したのは、その三週間くらい前だった。
「ひとつ、忠告なんだけど……いいかしら?」
「なんですか?」
訊かなくても、なつきに関することだということは大体見当がついた。
ここ最近、彼女の関心はその一点に集中していたから――。
「あんまり放っておいて、誰かに盗られちゃっても知らないから。なつきさんって、モテるのでしょう?」
「……相応に」
貴水はどうして母がここまで不安を煽〔あお〕るのかが分からなかった。
そんな息子の心情を察したのか、水江はふふふと笑ってはるか遠くを見た。
「だって、聴いてみたいじゃないの。――あなたたち、二人のピアノ。きっと、とても美しい旋律なのでしょうね……」
だから、一緒にピアノを弾きたいのなら 今すぐ ここに連れて来いと彼女は駄々をこねるかのように望んだ。
「 母さん…… 」
よく晴れた秋空へ、火葬場の煙が一本まっすぐに立ち昇る。
危ないと言われてからも、どこかで まだ 大丈夫だと無責任に信じていた。
けれど。
人間はあっけないほどに、簡単に白い骨になってしまう。そう思うと、涙も出なかった。
叔父である千住久一が色々と手助けしてくれたお陰で、一週間ほどである程度の母の身辺整理が終わって……魚路利〔うおじり〕療養所に最後の挨拶に向かい、水江の担当だった看護士に声をかけられる。
彼女は貴水のことをよく知っているらしかった。
「このまま、ドイツに発たれるんですか?」
「はい。……いえ、その前に」
何故か、「風花音楽大学」の名前を口にしていた。
「小夜原先輩はいませんよ」
対応した『宴会部』の幹部らしいボーイソプラノの彼の、明瞭な答え。
「……そう。だったら、いいんだ」
タイミングは一度はき違えると、合わせるのが……とても難しいのだと思った。
本当は。
君に伝えたいことがあったんだ。
とても、身勝手な言葉を……伝えてもいいだろうか?
伝えたいんだ、君に。
小夜原さん。
fin.
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