僕を呼ぶ、小夜原さんの声が聞こえたような気がした。
それは、願望だと思う。
この異国の空の下で、ピアノを弾く。君が好きだと言ってくれたから……僕はずっと、弾き続ける。
そんな気がした。
ドルツムジカ音楽院の理事長であるアンリ・サキ・シューリッツは自らも音楽家として公演を手がけているため、大学にいるのはごく限られた時間だけだった。
千住貴水が留学してから、二度目に彼女と顔を合わせたのは……二ヶ月後のこと。
「 センジュ! 」
と、にこやかに無邪気な笑顔を向けて駆けてくる姿は、まるで少女のようだった。
細い銀色の髪に薄い青の瞳のキレイな顔を無防備に崩して、「ジュギョウの方は、どうデスカ?」と訊いてくる。
「まあ、なんとか」
当たり障りのない答えを返して、その理事長が差し出したモノに首をかしげた。
銀のスプーン。それも、ごくシンプルな形のものだった。
「ウソはいけませんよ? ウソは……センジュの「銀のスプーン」は彼女でショウ!」
「銀のスプーン?」
「そう、幸運のメガミ。センジュ、アナタは運がいい! もう、「銀のスプーン」を持っているナンテ、とってもスバラシイことデスよ?」
にこにこと言うアンリに、貴水は確かにそうかもしれないと思った。
が。
「先生、彼女は僕の モノ じゃないですよ」
「ま!」
目を瞬かせてアンリは、貴水をあらためて見た。
「ドウシテ男っていう人種はそうなんでしょうネ? ドンカンすぎですよ、センジュ」
まったく、意味が分からなかった。
「彼女はあなたのものデスよ。サラっておあげなさイ」
と。強い口調でアンリは言ってから、自嘲気味に笑う。
「もちろん、サヨハーラからあなたを奪ったのはワタシなので、こんなことを言う資格はナイのかもしれませんが――」
「攫〔さら〕うって、僕がですか?」
まるで、冗談でしょう? とばかりに笑ってみせる貴水に理事長はイヤな顔をした。
「コレですからね。言うシカないじゃないデスカ。そうでしょう?」
誰に向かって同意を求めているのか、一人ブツブツとぼやいて、アンリは貴水へと強く首を振った。
「 アナタが です! センジュ。いいデスカ? 優しさはアナタの長所ではありマスが、時に男性には強引さが必要なのデスよ。特に恋愛では……手に入れられるかどうかの瀬戸際デス!」
「……でも、小夜原さんは」
「Nein! 彼女は待っていマス。アナタに必要なのは、強さ。ちがいマスか?」
「いえ……」
貴水はうつむいた目を上げて、困ったように言った。
「確かに、その通りです。シューリッツ先生」
〜 G線上のアリア 〜
母が余命、幾ばくもないと連絡が入ったのは夏の日のことだった。
それでも、すぐに日本に戻れなかったのは……やっぱり自分の弱さなのだろう。
会いに行けば、病状がさらに悪くなる。
そんな言い訳をしていたが、結局は死に際の母と向き合うのが怖かっただけだ。
音楽院が長期休暇に入った八月の終わり。
日本の日差しはまだ強く、蒸せるような残暑が続いていた。
「貴水……」
あの火事から、はじめてまっすぐに向けられた葉山水江の眼差しは大きく見開かれた。
出るかと思われた発作が出ず、水江自身驚いたように言った。
「傷、まだ残っているのね……」
たぶん、一生消えることはないだろう全身に巣くった火傷を包帯で隠すことをやめた。それを母に見せて、大丈夫だろうかと危惧したが、杞憂だったらしい。
逆に、彼女はくすりとおだやかに微笑んだ。
「 その方がカッコいいわ 」
火傷のひどい左側の頬に触れた、母親の右の手のひらの感触に懐かしさを覚える。
そうだ、この人はとても優しく僕に触れた。
いつだって。
「せっかく、キレイな顔立ちで産んであげたんだから……」
と。目の端に涙を浮かべて、水江は唇を噛んだ。
――もっと、早く。
この人に会いに来るべきだったと、貴水は後悔した。
fin.
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