夜の旧校舎で、古いピアノに指を躍らせながら千住貴水〔せんじゅ たかみ〕はどうして今もここから離れることができないのか……と、自嘲気味に考えていた。
「絶望」しか生まないと知りながら、それでもここにいる理由。
それは、ある種の麻薬のように自分を蝕〔むしば〕んでいる中毒みたいなモノだった。
ピアノがなければ、生きていけない。生きている意味がない。
だから、たとえ人から罵〔ののし〕られようと世の中を欺〔あざむ〕いてでも……ピアノを弾こうとする。
絶対に人の目に触れないように。
この叫びを封印する。
弾きたい。
〜 月光 〜
ただ、それだけのために。
僕はここにいるんだろう。
「 千住くん 」
彼女――小夜原なつき〔さよはら なつき〕に聞かれた時、本当はどうやって誤魔化そうか考えていた。
(でも、無理だった)
彼女の怒りを隠さない、まっすぐな眼差しに自分の卑怯な嘘が通用するとも思えない。
「聴かれちゃったんだね」
口にして、思わず笑ってしまった。それくらい、彼女の怒りは嘘がなくて、心地いいものだった。
*** ***
あれから。
ことあるごとに、表舞台へと連れ出そうとするなつき。
学内の選評会のみならず、著名なコンクールの参加用紙を貴水の胸に押しつけては、マメに世話を焼いてくる。
それが、あまりに頻繁なので……貴水は自分が心配するのも変な話だとは思いつつ、訊いたことがある。
「小夜原さんは僕のことばかり気にしているけど、コレって君も参加するんだよね? 大丈夫?」
と。
案の定、彼女は睨んできた。
「千住くんって、サラリと 失礼 よね」
「……ごめん」
だよね、と笑うとさらに渋面になるなつき。
「わたしの心配なんて、しないで。千住くんはただ、ピアノと向き合ってくれたらいいんだから」
彼女の願いは、時々脅迫めいていて貴水を困らせた。
コンクールが終わるたび、選評会の結果が出るたびに繰り返される不毛な問答に不思議な気持ちになる。
(どうして、こんなことになったんだろう。あの出逢いが悪かったんだろうか?)
いつものごとく、頬を小気味よく叩かれた貴水は包帯で隠した醜悪な肌をさすってぼんやりと思った。
「千住くん、聞いてる? どうしていつもそうなのよ! 馬鹿っ」
「だから、僕は君の思うような人間じゃないんだ。僕より、ソレは……君の方がふさわしい」
なつきの手にある、優勝者に贈られるトロフィーを見て、貴水は心からそう思った。
(そうだよ、僕よりもずっと……)
目を細める。
「おめでとう、小夜原さん」
貴水の綺麗な微笑に、なつきは唸〔うな〕った。
「もうっ!」
諦めた彼女の最後の仕草は決まっていて、長い髪が翻〔ひるがえ〕って離れていく。
そして、ちょっと離れた場所からあらためてふり返ると、
「千住くん――わたしのこと……」
強い眼差しが不安そうに揺れて、「なんでもない」と首を振って笑う。
(君が傷つくことなんてない。本当は――)
なつきの申し出は、いつも貴水をひどく困惑させた。けれど、貴水が彼女と出遭ったことを後悔したことは、なかった。
それは、彼にとっては身勝手な感情で誤魔化すことさえできない想い。
嘘のない彼女という存在に、いつも救われていた。
だから。
彼女が悩んでいることを知って放っておくことができなかった。
誰かのために、ピアノを弾くことができるなんて……本当は、思わなかったけれど。
「ありがとう」と。
君が笑ってくれたから、やっぱり僕は 焦がれるほどに 救われたんだ。
fin.
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