「付き合ってほしいんだ」と言ったら、彼女はあからさまに動揺して頑〔かたく〕なに首を振った。
「ダメ」
付き合えない――そう言った小夜原なつきの背を向けた肩が震えているのを見て、千住貴水は踏みこむことができなかった。
『どうして本気で弾かないんだ? 貴水。私に気をつかっているのか……おまえまで。そうなんだろう!』
天野のピアノ教室に通っていた頃の、夜だった。
その日は少し有名な国際ピアノ・コンクールのジュニア・低学年部門で優勝して、父も母もこの上なく上機嫌だったことを覚えている――。
〜 テンペスト 〜
寝ているところを揺り起こされて、そのまま父に手を引かれてピアノのあるリビングまで連れてこられた。
「ピアノを弾いてみろ」という、様子のおかしい父親に貴水は寝ぼけ眼〔まなこ〕で「弾きたくない」と言った。「眠たいから眠らせて」とも……空ろな父の眼差しが揺れて、顔を覆う。
肩を震わせた彼が強く、腕を掴んで放さなかった。
「 お……とうさん? 」
意味が分からなかった。
いつだって、本気で弾いていた。なのに、父はどんなにそう訴えても聞き入れず、ついには突き放した。
「そんなはずはない……おまえはもっと……もっと、上手に弾けるはずだ。……いや、違う。そうじゃない――ッ!」
がん、と小さかった身体はピアノの脚に肩をぶつけて、あまりの痛さに泣いた。
けれども、父親はそんな幼い息子の泣き声にすら、表情を変えなかった。
ピシャ。
と、サラっとした何かがかかって、思わず泣くのを忘れた。
イヤな匂いに息を止め、父を仰ぐ。
( お父さん……? )
その手にはライターがあって、カチンとカバーを上に弾〔はじ〕き上げた。
「 ピアニストとして失格だ。私もおまえも―― 」
そして。
それから、あとのことは炎の迸〔ほとばし〕る熱さで覚えていない。
ただ、皮膚の焼ける音、鼻につく匂い……「失格」という父の言葉だけが頭に残った。
本気でピアノを弾いてはいけない。
知らない間に、誰かを苦しめるのは……もう嫌だった。
自分が、傷つくのはもっと……。
(僕は、ピアニストにはなれない)
本気で弾くことが怖くて仕方ないなんて、ピアニストになる資格がないのと同じだった。それでも、君のためにピアノを弾くのは楽しかった。
けれど――。
それももう、できない。
*** ***
君が苦しむのなら、君のいない遠い場所に行くのも悪くない。
留学を決めると、あとは勝手に時が過ぎた。
その間に鈴柄愛がやってきて、「小夜さんはひどい!」となじった。
「どうして?」
「だって、貴水くんのこと――貴水くんのピアノが好きなんだって。だから、付き合えないんだって……言ったのよ」
口を歪めて訴える愛に、貴水は笑った。
「いいんだ。小夜原さんが僕のピアノを好きでいてくれるなら……それだけで、僕は救われる」
びくっ、と身をすくめて、愛は貴水を仰いだ。
「なんでよ! どうして小夜さんなの?! わたしだったら離れたくないよっ。好きなんだから!!」
行かないでよ、と貴水の腕にしがみついて……愛は感情をぶつけたが、貴水の手がそれを静かに制した。
「ダメだよ。僕はここにはいられない――彼女を苦しめるだけなら、離れた方がいいんだ」
ぐっ、と貴水を掴んでいた愛の手が震えた。
「……どうしても、行くの?」
「行くよ。鈴柄さんの気持ちは嬉しいけどね」
「悔しいなあ。どうしても小夜さんなんだもん……いいよ。わかった。餞別何がいい?」
「餞別?」
まったく予想していなかった言葉に、貴水は首をかしげて「別に……」と一度は辞退したが、ふと思いついて愛をうかがった。
「じゃあ、ひとつお願いしてもいいかな?」
最後に、彼女にはちゃんと言っておきたかった。
苦しまなくて、いいのだと。
キスをして、ごめん。
でも、君のその目を見たら……離れられなくなるから、こうするしか方法が思い浮かばなかったんだ。
fin.
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