これくらいで、怒りがおさまるワケがなかったんだ。
でも、君にそんなことを言われるのは……ちょっと心外だよ。小夜原さん?
〜 ラ・カンパネルラ 〜
「 バカ! 」
包帯の結び目をほどいて触診する小夜原なつきの手を制すると、彼女はさらに怒りを爆発させた。
「何考えてるのよ!」
と、言われても貴水は困惑するしかない。
分かりきったことなのに、当の本人はまったく自覚がないらしい。
君のせいだ……と、口にできたらどんなに楽だろうと思う。
「ピアノ、弾けなくなったらどうするのよっ」
「……君ほどではないと思うけど?」
苦し紛れにそんな憎まれ口を叩いて、彼女の怒りを買う。
絞られた手首の包帯に呻いて、貴水は黙りこんだなつきに無駄とは分かりつつ言ってみた。
「小夜原さん、痛いんだけど」
案の定、返ってきたのは無情な怒号だった。
「千住くんなんか、……鬱血しちゃえばいいのよ!」
「……それは、ちょっと」
その答えが天才的なまでになつきの感情を逆撫でしていると知りながら、貴水は口にするしかなかった。ほかに言うべき言葉が見つからないんだから、仕方がない。
けれど、なつきの論理はいつだって彼の上をいった。
いきなり、そういう話をされてもすぐには理解できなかった。
恨みがましいなつきの目を見て、ようやく実感する。
「痛かった? そんなに?」
訊くと、思いっきり肯定されて(ああ、そうなんだ?)と今更ながらに後悔する。
あの時は余裕がなくて、そんなことに気づきもしなかった。我慢強い彼女に「あのあと」どんな仕打ちをしたのかと思い出すと、口に出たのは謝罪の言葉だけだった。
「そっか、ごめん」
「あのね。千住くん……」
と、何かを言いかけた彼女を遮って、降ってきた「留学」の話に貴水は戸惑った。
もちろん、興味がないワケではなかったが――。
スルリ、と大切な 何か が逃げていきそうな予感がして、昔のことを思い出す。
記憶に封印された父の顔が浮かんで、彼女もまた消えてしまうのではないか? と怖くなった。もう、あまり「怖い」と思うような存在はなくなっていただけに、久方ぶりの感覚に無理矢理不安を打ち消した。
(馬鹿な……小夜原さんは、 父 とはちがう)
確かにそうだ、と思う。
なのに、不安はなくならない。
おかしくもないのに笑って、自嘲する。それしか気分を紛らせる方法を知らないなんて、どうかしてるんじゃないだろうか?
……僕は。まだ、父の影に怯えている 小さな子ども のままなのかもしれない。
fin.
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