わざと、傷つけるように言ったんだ。本当は。
「悪かったわね!」
そう、強気に睨まれても僕には分かるんだ。
パァン、と引っぱたかれた頬を押さえ、走って行ってしまった彼女に「ほらね」ともう一度、呟いた。
「やっぱり君は、何も知らないんだ。小夜原さん」
〜 革命のエチュード 〜
そんな怖い顔しないで……と、まるで怯えたようにシェルツ・ウィン・フレーバー講師は千住貴水に向かって言った。
(当然だろう?)
と、彼を睨みつけたまま、正確な今の時間を把握する。
もうすぐ、終了のチャイムが鳴るハズだ。
「 先生 」
と、貴水は開いていた楽譜をまとめて口を開いた。
「今日のレッスンは、ここまでですね」
今にも、崩れそうななつきの腕を掴んでレッスン室を出た。
自覚のない彼女は、まろびそうになりながら「どうしたの? ねえ?」と何もなかったことのように訊いてきて、貴水を苛立たせた。
レッスン室の並ぶ棟の廊下を過ぎて、大教室につながる棟の狭間に入る。エレベーターの奥にある、あまり人の来ない階段のエアポケットへ引きずりこむと、なつきを階段裏の壁へと押しつけた。
「小夜原さん、だから君は何も分かってないって言うんだ」
ハァ、と息をついて貴水は目を伏せ、ふたたび開いて彼女を見た。
驚いたなつきの大きな瞳から涙がこぼれ、頬を伝っていく。
「そんな顔を僕に見せないで……迂闊だよ。君は」
彼女の濡れた頬を、親指で拭う。
ようやく、自分が泣いていることに気づいたらしいなつきは唇を噛んで言った。
「千住くんが悪いのよ。教えてもくれないのに、分かるわけない。分かるわけないじゃないの!」
楽譜の入ったケースを手から落として、どんと貴水の胸を叩いた。
その目は、涙に濡れながら強く彼を睨みつけて微塵の弱さも見せない。
「 バカ! 」
胸を叩かれて、強くその手首を握って止め……罵る彼女の唇を塞いだ。
「ん……ふー、んん」
次第に抗う力が弱まるなつきに、貴水は逆に煽られた。
遠く階段を伝う足音は、確実に階下のこの場所へと近づいている。なつきもそれを気にしているのか、目をうっすらと開けると戸惑うように揺れる。
「せ、千住くん!」
離れた唇が大きな声を上げたが、貴水はそれを目で制し、唇で確実に黙らせる。
じゃれ合う女学生たちの足音が通り過ぎて行ったあとも、貴水はなつきから離れることができなかった。
脈打つ首筋に指を滑らせ、息を呑む彼女の喉がコクリと上下するのにさえ欲情する。
目の端を赤く染め、潤んだ瞳がまるで誘っているように映る。
これは、願望だろうか?
それとも……。
貴水は頭に浮かんだ、都合のいい解釈を慌てて打ち消して言った。
(ここで、繋がるワケにはいかないんだから――)
「僕は いつも 、 君 が欲しいと思ってるよ」
左の親指で、半ば開いたままのなつきの唇をなぞって、離れる。
支えを失った彼女は、ぺたん、と地べたに落ちた。
呆然と仰ぐ瞳が、貴水を映す。
欲望に飢えた眼差し。
(まるで、 獣〔ケダモノ〕 だな)
と、貴水は自らを断じた。
小夜原さん。
だから、言ったんだ。
僕に近づいたらダメだって――君は、無防備であまりに無知だ。
狙われているとも知らないで煽〔あお〕るような言葉を使うし、一番危険な男〔オオカミ〕の前で簡単に泣く。
それって、襲われても仕方のないことなんだよ?
勿論。僕なんかに狙われて可哀想だとは、思うけど。
fin.
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