( たぶん、僕は とても 不幸で……だから、 とても 幸せなんだ。 )
寝室にあるはきだしの大きな窓の向こうには、ぽっかりと満ちた月が映っていた。
新月の夜にはほとんどできない陰影が、この夜はくっきりと作り出されて座った千住貴水〔せんじゅ たかみ〕の横で眠る小夜原なつきの寝顔を照らした。
貴水は彼女の、その長い黒髪に触れて、素肌の肩がシーツから露になるのを複雑な気分で見守った。
一度目にこういう関係になったのは、ちょうど春。
二度目に関係をもったのは、それから三ヶ月後の夏季休暇半ばのことだった。
それからあとは、なし崩し的に彼女をこの部屋に泊めた。
〜 シシエンヌ 〜
「今は、付き合ってくれなくていい。友だちのままだって構わない」
と、彼女は気丈に微笑んで貴水を困惑させる。
彼からすれば、それはとても都合のいい関係だった。恋人同士でもない無責任な関係で、好きな女性に愛され、彼女の身体だけを抱くなんて……男だったら夢のような話だ。
迷惑に思うハズがない。
白くふっくらとしたなつきの頬に手の甲をあてて、その体温を確かめる。
(だけど、小夜原さん。僕は怖いんだ――)
「……ん」
身じろいだ彼女がうっすらと瞼を開けて、月明かりを背にした醜い傷のある男を映した目を細める。
「千住くん」
と、彼を呼んでしっかりと抱きついてくる。
何も身につけていない彼女にシーツを巻きつけて、貴水はその柔らかな心地いい存在を抱きしめた。
「好きよ」
「僕も、好きだよ……小夜原さん」
だけど、付き合おうとはなかなか口にできなかった。
それが、子どもの頃のトラウマからのことなのか……あるいはただの臆病さからなのか……判断をするのは難しい。
昔の出来事は確かに不幸だった。
生きることが苦痛で、ピアノがなければきっと生きてはいけなかった。
ピアノが彼を「絶望」に突き落として、そしてわずかな「希望」にもなった。
皮肉にも……、貴水にとってピアノは良くも悪くも「すべて」だった。
そのピアノが、貴水となつきを繋いだ。
「なに、考えてるの?」
貴水の胸の中で、なつきが静かに訊いた。
彼女の長い黒髪を手の指で梳〔す〕いて、スッと月に翳〔かざ〕すように持ち上げる。
サラサラと音もなく落ちるそれを眺め、彼女の頭に頬をつけて貴水は遠く目をすがめた。
長く伸ばした前髪で、すこぶる見通しはよくない。
ほのかに香る、彼女の髪の匂い。
自然、気持ちが安らいだ。
「――ん。僕は幸せなんだって、思うんだ。いまは」
なつきは、何も言わずに彼にすがる。
シーツのかすかな衣擦れの音。
月夜の部屋は、どこまでも明るかった。
そう。
君を抱きしめている間は……きっと。
!注意! イラストの著作権は小鳥さまに帰属しています。勝手に持って帰らないでネ★
fin.
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