教室の隅に山辺志穂〔やまべ しほ〕を手招きして呼び寄せた澤嶺祥子〔さわみね しょうこ〕は、おもむろに 何か を彼女の手に握らせた。
カサリ、と手のひらで鳴った平べったい包装はビニール製だろうか?
息を呑む。
「しょ?! しょーこちゃんっ!!」
まじまじと眺めたあとに、唐突に真っ赤になった志穂は思わずそれを手のひらから滑り落としそうになって……慌てて、手のひらに隠した。
いわゆる、ひとつの「家族計画」。
(コレって、あの時に……男の人のアレにつけてもらう……いやー、想像しちゃった!!)
にんまり、と笑った友人は志穂の反応に満足がいったようだった。
ポンポン、と肩を叩くと、唇に人差し指を立てて声をひそめて言う。
「そ。コンドーム……彼氏ができるおまじない」
「……お、まじない?」
必死に平静を装おうと頑張りながら、あまり成果は上がらなかった。
頬が熱いうえに、顔は引きつるし、手の中にはいまだ所在なさげな渦中の それ があってどう扱えばいいのかわからない。
「こ、困るよ。こんなの……誰かに見つかったら……どうするの?」
「身だしなみ身だしなみ。いつ何時、要りようになるか分からないワケじゃない? わたしたちだってさ。鞄の奥とか、手帳の中とかに隠しときなさいよ」
あって損はないんだから、と彼女は主張する。
が。
「い、いらない」
ブンブン、と首を振って志穂は辞退した。
拳を突きつけて、引き取るようにお願いする……。
「 山辺 」
「ひっ!」
そのよく知る声に、思わず手を引っ込める。
志穂の動揺の仕方に不思議そうな顔で鳴海広之〔なるみ ひろゆき〕は眉を寄せた。
「数学のノートの回収。おまえだけだから」
「あっ! はい。ごめんなさい」
慌てて、志穂は机に走ると手をスカートのポケットに入れて、ひとまず避難させる。
「お願いします、鳴海くん」
「ボーッとしてんなよ、バーカ」
ポン、とノートで志穂の頭を軽く叩くと、彼は肩をすくめて教室を出て行った。
〜 山辺志穂の場合 〜
「はあ、いいわねえ。志穂は」
頭をさすりながら戻ってきた彼女に、羨ましそうに友人がため息をついた。
「「おとなり」に シッカリ 王子様 がいて……」
「そ。そんなんじゃ、ないもん」
(――全然。よくなんか……ない。彼女がいる 人 なのに)
その後、人の気の知らない祥子があまりにそのことを囃したてるものだから、志穂はスカートの中のものを 返す 機会をすっかりと失ってしまった。
*** ***
仁木可奈美〔にき かなみ〕とすれ違う瞬間に、言われた。
あの廊下での出来事があって以来、志穂は彼女がとても苦手だった。広之との噂も相まって、廊下や集会といった場所で目が合いそうになったら条件反射で反らしてしまう……そういう相手に「いい気なものね」と聞こえよがしに言われて、ビクリと背中が凍りつく。
悪意で吐かれた、と分かる。
ギュッ、と教科書とノートを抱きしめて、立ち尽くす。
「彼に甘えてたらいいんだもの、楽よね」
「………」
その通りだった。
「山辺」
いつものように異変にいち早く察した彼がやってきて、立ったまま微動だにしない志穂を呼んだ。そして、すぐそこに立つ彼女に気づく。
「可奈美」
すべてを察した彼は志穂の肩を一回、優しく叩いて、「悪い」と低く囁いた。
首を振る。
「広之」
「来い」
あん、と可愛く驚く彼女の手首をむんずと掴んで、志穂から離れていく。
静まり返っていた廊下が喧騒に包まれると、祥子が志穂を心配そうに覗きこんだ。
「大丈夫? 志穂」
「うん」
頷きながら、少しも大丈夫ではなかった。
胸が痛い。
つき合っているのなら、名前で呼び合うのは当たり前だ。今更、目の当たりにしたからと言って傷つくようなことじゃない。
なのに、目の前で広之が彼女を名前で呼んだ時、彼に怒りを感じた。
それなら、どうして毎夜あんなふうに扱うのか……と、ひどく惨めだった。
(わたし……バカみたい)
期待などしてないフリをして、本当はこの 関係 に期待したかったのかもしれない。自分は彼にとって 特別 で、ちゃんと好かれているんだと……思いたかったのかも、しれない。
口にしなければ……確かめなければ……それは、思いこめる「妄想〔ゆめ〕」だから。
(ずっと、夢見ていたかった。でも、もう――無理みたい)
この関係に限界がきているのだと、身勝手な心の独占欲に思い知らされる。未練がましく痛む胸を握りしめて、志穂は手離す 覚悟 を決めるしかなかった。
部屋のカーテンを掴んで、志穂は渾身の力で彼の腕を抗い背中を向ける。
夜の闇の中。
薄い布で隔たれた空間に、震える声で言った。
「イヤ、嫌なの。……鳴海くん」
「……可奈美が何か、言ったのか?」
広之の言葉に、必死にかぶりを振る。
可奈美、と呼んだ彼にまた、少し傷ついて……気にしない、と言い聞かせるように強く瞼を閉じる。
「そ、そんなんじゃないもん。もともと、変、でしょう? こういうの……好き、合ってもいないのに」
ほんの少しの沈黙のあと、広之が「確かにな」と同意した。
「志穂は、淫乱だものな」
「……ち、がうもん」
カーテンに包まりながら、志穂の目には悔し涙が浮かんだ。
(そんなんじゃ、ない。鳴海くんだから……だもん)
「じゃあ、なんで今まで俺に許してたんだ? 何しても嫌がらなかったクセに」
「……鳴海くん、だから」
「志穂、それ、答えになってないから」
呆れたような広之の声に、悲しくなる。全然、彼には伝わらない。
「……鳴海くんだから。いい、と思ったんだもん!」
「え? はぁ……あ? ……そうなの?」
まるで、少しも考えたことがないとばかりの反応に、志穂はギュッとカーテンを握る手に力をこめる。
「普通、そうなんじゃないの? わたしだって、……女の子だもん。でも! もう、いいから」
「志穂」
近づく気配がして、志穂はゾッとする。
「来ないでっ、触らないで! もうキライ!! キライになったから……いいの」
決定的な 答え なんか聞きたくない、と思う。
あるいは、触れてしまえば……そのまま、また関係を許してしまいそうで怖かった。
「 わたし。大っキライ、になったの! 」
必死に言い張って、耳を塞いだ。
どれくらいが経ったのか、いつの間にか彼の気配は消えていて開いたままの窓からは風が吹きこんでいた。
震える体に、カーテンを巻いて……そのままの格好で、ズルズルと志穂はうずくまった。
「うそ。本当は、好き……ずっと、ずっと……好き、だったんだもん」
口にして、志穂は認めた。
出会った頃から鳴海広之が好きだったと――空ろになった 心の中 にその想いだけが残って、トクンと響いた。
>>>おわり。
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