彼女の唇は――甘く。
きっと雪のように儚く、溶けるのだろう。
〜 名越真希の場合 〜
実際に触れた、その感触はほのかに冷たく柔らかだった。
「ん……名越、くん?」
消える、と思っていた幻想は確かな形を示して鮮明に現実の彼女を感じさせる。
(汐宮さんはここにいる。俺の腕の中に……いるんだ)
高嶺の花だと、触れることさえ躊躇させる憧れの女性がこうして 本当に 自分の腕の中にいて、微笑んでくれることに(死んでもいい)とさえ思った。
「 ごめんなさい。遅くなりました 」
着ていた着物に泥がついたために着替えに戻っていた汐宮清乃〔しおみや きよの〕が戻ったのは、一時間以上も経った頃だった。
流石に彼女の母親も不審に思って呼びに立とうとしたところで、「お客様をお待たせするなんて失礼ですよ、清乃」と結構強く叱られていた。
「いえ、僕は……」
思わず、愛しい彼女を助けようと口を開いてしまう。
「気をつかわないで、名越くん。母の言う通りです、わたしが悪いのですから」
毅然と言い、頭を下げた清乃に真希はまたドキリと胸が鳴った。
着替える前の淡い桜色の小さな花をあしらった清楚な柄ももちろん清乃に似合っていたが、今の着物はさらに彼女に似合っていた。
夜色の深い紺地に、鮮やかな蝶が舞っている。
肌の白さが浮き立って、清楚な着物とは違う艶かしさがあった。
(綺麗だな……)
と、彼女の静かな表情に見惚れて気づく。
「もしかして、疲れてる? 汐宮さん」
あまり、彼女の母親には聞かせないほうがいいだろうと思い、声をひそめて訊いた。
「……ええ。ちょっと……張り切りすぎたみたい。母には内緒ね」
肩を竦めた清乃は苦く笑って、心配する真希に「大丈夫よ」と強がった。
*** ***
名越真希がその場面に遭遇したのは、昼の休み時間のことだった。
清乃と付き合いはじめてからは(自意識過剰かとは思いつつ)生徒会の会長である自分を崇拝する女生徒からの不当な嫌がらせに対処するため、できるだけ彼女を一人にしないように送り迎えを日課にしていた。昼休みも約束をしていて、特別な事情がない限りは三人で食事をするのが常だった。
迎えに行くと、彼女はすでに教室を出たとの情報をもらって不審に思って校舎内を歩き回った。
主に人通りの少ない場所だ。
先程、彼女の教室で得た情報の中に……誰かに呼び出されていたようだ、との内容が含まれていたせいだ。
(……大丈夫だろうか?)
自分の崇拝者がいる、という自覚はある。けれど、まさか過激な方向に走るとは思いたくなかった。
親友の真鍋耀〔まなべ よう〕がいれば、失笑して「めでたいな」とでも冷ややかに言われそうだが。
パシン、という音が耳に届いて、ハッと息を呑む。
「どういうつもりよっ、名越会長の彼女のクセに!」
と、ヒステリックな女の声が言って、一人ではないのだろう「そうよ」とか「会長が優しいと思って」とか口々に罵しる声が続く。
「どういうつもり……」
愛しい彼女の普段と変わらぬ静かな声が響いて、「なんのことかしら?」とさえずるように言ったから相手の集団はさらに機嫌を悪くしたようだった。
「なんのこと、ですって?!」
「空々しいっ」
「知らないとでも思ってるの? か弱い あなた が会長の親友の真鍋くんにまで色目を使ってる、なんてね」
「とぼけるなんて、流石……汐宮さんってとこ――」
イライラ、とした様子の声はコツリと近づく気配に気づいたのか、急に途切れてこちらを向いた。
「! な、こし会長っ」
用具室と階段の影になったその場所は、昼時間になると急に人通りがなくなるエリアだった。
出来るだけ冷静になろうと思った。
愕然としている四人の女生徒と、壁際に立つ清乃を確認して……頭に血が上った。
「なに、やってるの? 汐宮さんに何したんだよっ」
怒鳴ると、彼女たちは身をビクリと震わせて「だって」とか「会長は騙されてるんです」とかつまらない言い分を繰り返した。たとえ、万が一に何か正当な理由があるにせよ、今の状況を許すわけにはいかなかった。
「騙されてる、ってなに? そんなことはどうでもいいよ。それが君たちに汐宮さんを叩く理由になるはずがない」
一度ではない。何度も叩かれたあとが、彼女にはあった。
制服にも乱れがあって、強く押さえつけられたのだろう肩ほどに短く切った髪が艶かしく乱れていて、状況とは不相応に心臓を騒がせた。
「それは……そうかもしれないけど。でも、本当なんです。汐宮さん、真鍋くんにもベタベタしてて名前で呼び合ったり……おかしいじゃないですか、そんなの」
はぁ、と息をついた。
「おかしい? それだけの理由でここまでしたんだとしたら……俺は君たちを軽蔑するよ」
集団心理の恐ろしさとは、時々真希を驚かせる。
ぐっ、と唇を噛んで彼女たちは俯いた。「行こう」と清乃の背中を促して、「二度としないでくれ」と言い置いた。
「ごめん」
と、謝ると清乃は「平気」と気丈に微笑んだ。
痛々しい頬に目がいって、「腫れてる、大丈夫?」と手を伸ばそうとして緩やかに阻止される。
「大丈夫よ」
触れられたくない場所が彼女にはあるのだろうと真希は思った。
生きている人間なら、たとえ付き合ってる恋人に対してでもそういう場所があって 当然 だ。
けれど。
真希にはそれだけじゃない 何か があるのかもしれない、と思う瞬間がある。
いつもの生徒会室に入ると、先に食事を済ませた耀がハードカバーの本を開いて読み耽っていた。一応、扉が開いたので目線だけは上げたが入ってきたのが真希と清乃だと確認するとまた目線を元に戻した。
見るからに、暴行のあとの残る痛々しい彼女を見ても声一つかけなかった。
「こんにちは」
清乃がその机の角に座るのを、耀は眉をひそめ……口は開かなかった。
勝手にしろ、の意思表示と不愉快の感情をゆっくりと吐き出して、真希へと目を上げる。彼女の相手はお前がしろ、とでも言うようだ。
(――羨ましいよ、まったく)
女々しい、と思いつつも清乃に特別視されている親友に羨望の眼差しを向けて(俺がお前なら……)とありもしない現実を夢見て彼女の隣に固執した。
*** ***
彼女に好かれている自信なんて一つもない。
あのあと、耀に一部始終を話し、彼女の周囲に注意をするのに協力を求めた。けれど、彼の反応は冷たく、訊けばそういう呼び出しは今までもあったことを知っているとのことだった。
どうして知っているのかと問えば、たまたま目撃したのだとか面倒そうに言われ。
どうして教えてくれなかったのかと責めれば、おまえが過剰反応するだろ? と鼻で笑われ。
汐宮さんが心配じゃないのかと訴えれば、気持ち悪いこと言うなと目で拒否された。
(汐宮さんが甘えるのは、耀……お前、だけなのに)
「そういえば、耀は?」
キョロキョロと周囲を見回してみるが、かなり前から姿は見ていなかった。それに、「帰る」とも言っていたような記憶がある。
あまりに緊張していて、清乃の家に来た最初のあたりは何をしていたかよく覚えていない。
「多恵ちゃん」
「はい」
「真鍋様……もう一人のお客様はご案内して、お帰りいただいたのよね?」
清乃が声をかけたのは、中学生くらいの女の子だった。
長い三つ編みをしていて、真希と目が合うと頬を染めて俯いた。可愛らしい反応だと思った。
「はい……帰られました」
コクン、と頷いて、少女は何故か不安そうに唇をすぼめた。
>>>おわり。
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