「俺。山辺のああいうウジウジしたところ、嫌いなんだ」
〜 山辺志穂の場合 〜
学校の教室から聞こえた――扉越しの声が誰のものかなんて、山辺志穂〔やまべ しほ〕にはすぐに分かった。
鳴海広之〔なるみ ひろゆき〕。
志穂の家の隣の家に中学にあがる前に引っ越してきた、男の子。高校も、同じになったのは偶々〔たまたま〕だが……快活で、優しくて、なんでもできる優等生は、地味で、暗くて、成績も容姿も性格さえもパッとしない志穂に手厳しい。
(そんなこと、分かってる……)
志穂が扉越しに聞いていても、いなくても、彼はきっと同じことを口にするだろう。
陰口は、叩かない。
それが、公明正大な 彼 らしいところでもある。
志穂だって、好きでウジウジしているワケではない……見映えのする容姿もなければ、ほかを圧倒する能力があるワケでもない凡人は、積み重ねた経験と自信で身を律するしかないワケで……志穂には、それができるだけの度胸も勇気も資質も持ち合わせていない卑屈なタイプの人間だった。
『毎日、こんな遠くから見つめるくらいなら、告白でもなんでもしてくればいいんだよ』
志穂が憧れるクラスメートであり、生徒会の書記をしている彼を窓からいつも眺めていたら、そんなことをつい最近進言された。
『でき、ないよ。そんなこと……』
自分があの書記、真鍋耀〔まなべ よう〕につりあうとは到底、思えない。
無意識にカーテンに包〔くる〕まる志穂に、広之は侮蔑を露にしたため息をついた。
『おい、またカーテンに隠れるのか? おまえは』
『………』
何か、困ったことや落ちこむことがあると、志穂はついカーテンに包まるクセがあった。薄い布一枚の壁ではあったが、世界から遮断されると精神が安定するのだ。なんとなく、ではあったが。
「どうせ、ウジウジしてるし……」
ひとしきり志穂はカーテンに包まって満足して、自分の部屋から見える広之の部屋の窓を眺める。電気がついて、カーテン越しに映る人影はいま、学校から帰ってきたのか鞄を置く動作をするとふたたび電気を消して、部屋から出て行ってしまった。
(告白したら……少しは、見直してもらえるかな? 頑張ったな、って思ってもらえたらいいな……)
ぼんやりと、そんなことを考えて志穂はそれなら、失恋しても悪くないような気がした。
そんな志穂の一世一代の 告白 に神様が同情したのか、はたまた悪魔の気まぐれか(おそらく、後者)真鍋耀は「いいよ」とたった一言で 答え をくれた。
たまたま、前の彼女と別れたばかりで……フリーだったからだと、志穂は思う。
(来る者は拒まず……って、有名だもの――)
唇に冷たい、柔らかな感触が触れるのを瞼を閉じて感じる。
憧れの人が、キスしてくれる。なんて、きっととても幸せなことだと、つい逃げ腰になる自身を叱咤して応える。
唇は冷たいのに、入りこんでくる舌は熱くてやっぱりこの人も人間なのだと、当たり前のことを実感した。目を開けると動くことの少ない表情に、冷めた眼差しが呆然としたような志穂の顔を映していた。
(本当に「人間」らしくないけど人間……なのよね。血の通った男の人……)
そう考えると、憧れていた時には感じなかった違和感が生まれて、無性に否定したくなる。何もかも。
違う。そうじゃない。
「……ん。真鍋、くん」
付き合い始めて何度目かのキス。
第二音楽室で引き寄せられて、迷いながらも志穂は何を否定したいのかよくわからなかった。
不意に、電流のようにわかった。
制服のブラウスの裾から入った彼の指を、志穂は受け入れられなかった。
(怖い……)
竦んだ彼女の体に、経験の豊富な彼が気づかないワケがない。視線を絡め、すぐに指を引っ込める。
「真鍋くん、怒った?」
見透かされる――そう、思った。
「べつに」
気のない彼の返事と、静かな眼差しにゾクリとした恐怖。
「いつまでいるわけ?」
志穂の心を、真鍋耀が知る術などあるワケはない。彼は、志穂を好きではないのだから。
けれど。
彼女は彼女自身の目がそれを暴いた。臆病な気持ちは、卑怯な手段で己〔おのれ〕の心を欺〔あざむ〕いた。
外の世界は、志穂にとって踏み出したくない世界だった。それなら、内なる世界で外の人間ではない 人 を好きになればいい。相手は人ではないのだから……傷つかない。
自分も相手も、楽でいい。
耀を好きなフリをして、彼の性格を利用していた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……)
志穂は、ひどく自分が情けなくて、馬鹿で、みっともない人間なのだと思い知り、こんな自分を 誰か にはけっして知られたくないと無意識に願った。
*** ***
「志ー穂! 大丈夫? 気にしちゃダメだってばー」
「………」
真鍋耀と自然消滅的に別れることになった彼女を、友人の澤嶺祥子〔さわみね しょうこ〕が一生懸命元気付けた。それというのも、関係が悪化してからの彼女の落ちこみ方が傍から見ていても痛々しかったからだ。
「真鍋くんと、志穂じゃやっぱりタイプがちがうっていうかさー? ああいう冷たい美形よりはさ、志穂には優しい人がいいって、んー? 例えば、委員長の鳴海くんみたいなさ」
「……無理、だもん」
ずーん、とさらに落ちこんだ志穂に祥子は「うわー! いまのナシっ」と慌てて撤回した。
(すぐに撤回されるような、ことなのよね……やっぱりさ。いいけど……)
どうにもならない事実に、一喜一憂して自己嫌悪。
馬鹿で、情けなくて、みっともない「わたし」。
それを、彼には知られたくないから外には出ない。目を向けない。ただ、ジッとしてるだけ……。
それでいい――。
ギュッ、とカーテン越しに 何か に包まれて、志穂は瞼を開けた。放課後、ぼんやりしていたらこういう状況……声が出ない。
お腹のあたりに腕を廻されて、密着する体温。息遣い。静かに流れていく時間。
(――だれ?)
わからなくて。
わからないのに、その 時間 がとても優しくて終わらせることができなかった。
学校の鐘〔チャイム〕が時を知らせ、その温もりが立ち去るまで……志穂は、身動き一つしなかった。臆病な彼女がそっ、とカーテンから顔を覗かせた頃には そこ には当然ながら 誰も いなかった。
>>>おわり。
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